橋下vs山口論争について――現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心こそ解くべき(3/3)

渡邉 斉己

そこで最後に、今後の教育委員会制度改革の具体的な方策について、私見を申し述べて終わりにしたいと思います。

先に述べた通り、大阪府教育基本条例案に示された教育委員会制度改革構想も、その改革方策の一つだと思います。それはなにより、現行教育委員会制度下において教育委員会が実質的に果たしている諮問機関としての役割を一層明確にするものであって、違うのは、それを教育長の諮問機関ではなく、教育長による学校経営を評価しそれを長に報告すると共に、市民に対してその結果を公表する役割を担うということです。


といっても、これを橋下氏の大阪都構想の下において考える場合、都と区の関係は、他の県における県と市町村との関係とは異なり、区の行う学校経営に対する都の関与はより強まることになります。他の県においては、もし、現行法下の県費負担教職員制度が廃止されれば、教職員の任命権や給与負担が市町村に一本化されることになりますが、未だ小規模市町村も多いことから、地域の学校経営管理機関の設置単位を、大阪都構想における区程度の規模に平準化することが考えられます。

この場合、教育委員会の設置単位を区相当規模にするため広域連合組織にするか、あるいは教職員の身分を県に移管して、人口規模30万程度の地域に学校経営管理機関を設置するという方法も考えられます。もちろん、この学校経営管理機関は、大阪都構想における大阪の区と同様に自立した学校経営権を持つことになります。また、この場合、県も、大阪都構想における都と同程度の地区学校経営に対する権限を持つことになります。それが出来ない場合は、基礎自治体の広域化を推進して任命権を委譲し学校経営の責任体制の明確化を図るべきです。

しかしながら、このような自治体の長の教育行政及び学校経営に関する権限を明確化する案は、教育の政治的中立性を犯すとの批判を招くことになるかも知れません。しかし、長は、学校経営を直接行うわけではなく、あくまで教育長という学校経営の専門家に任せるのです。そして、その学校経営の評価を市民の代表によって構成される合議制の教育委員会が行いそれを長に報告する。長はその報告に基づいて教育長に必要な指示を行うわけで、それで一定の学校経営上の自律性は保たれるのではないかと思います。この場合、教育委員の任命権を議会とすることも考えられます。

もちろん、その場合の長の判断が、不当な政治的支配に相当するのであれば、教育基本法第16条に違反することになりますし、次の首長選挙で落選させることも可能です。この点、欧米においては、教育行政を一般行政から切り離すという例はほとんどないとのことですが・・・。従って、この点に関して過剰な警戒心を持つ必要はないのではないでしょうか。むしろ、その教育行政の政治的中立という建前の裏で、インフォーマルな権力行使が、市民の知らない所でなされるよりよほど良いと思います。

あるいは、それでもなお教育行政を一般行政から分離する必要があると言うなら、考えられる方策としては、地域における学校経営管理機関を国立大学と同じように法人化することも考えられます。この場合、教育費は全て国庫より支出することとして、これをクーポンで児童生徒の保護者に給付し、保護者は行きたい学校にそれを提出する。いわゆる学校の自由化論に基づくバウチャー制度の導入です。これは、学校経営を市場の選択に委ねるものですが、「教育の機会均等」を確保できるかどうか・・・。

いずれにしても、懸案の現行教育委員会制度の形骸化という問題を解決し、真に責任ある教育行政及び学校経営体制を確立する必要があると思います。こうした状況の中で提起されたものが橋下氏の大阪都構想、その下での自治体再編と教育委員会制度の改革構想です。確かに大阪府教育基本条例案は、現行法を無視するものであって品位を欠くものであると言わざるを得ませんが、そこに盛られた教育委員会改革構想は、一定の説得力を持つものであることを率直に認めるべきだと思います。

最後に、本稿の標題「現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心こそ解くべき」について説明しておきます。以上紹介した教育の政治に対する不信は、もとをただせば、戦前のアカデミズムと共産主義を恐れた政治との対立に起因しているのです。それだけならまだ良かったのですが、蓑田胸喜等狂信的現人神思想家と政治家が結託して天皇機関説排撃事件を起こし、これに皇道派軍人が加担したことで国体明徴運動に発展しました。ここから、教育と政治の不幸な関係がはじまったのです。

以後、日本の教育は次第にいわゆる「軍国主義教育」一色になりますが、日本の教育がこのような国粋主義的排外主義に陥るのは、昭和13年以降のことで(参照「山本七平の天皇制理解について5」)、それ以前の日本の教育が全てそうであったというわけではないのです。天皇機関説にしても昭和10年以前は公認の学説でしたし、日本の歴史観にしても、右翼イデオローグの二大巨頭とされた北一輝や大川周明は、尊皇思想からは全く自由に独自の史観を展開していました。大川周明などはむしろその被害者で、彼の著書『日本二千六百年史』は昭和15年に書き換えを余儀なくされています。

おそらく、こうした記憶が、終戦直後吉田第一次内閣で文部大臣を務めた田中耕太郎の「大学区構想」(全国を9ブロックに分け、その中心を欠く帝国大学としてその下に高等学校、中学校、小学校をピラミッド状に置き、各帝大学長をその学区庁の長官とする案。内務省の反対で消滅)にも反映していたのではないでしょうか。教育委員会法にいう「不当な支配」もこの不信に根ざしていることは間違いありません。しかし、はっきり言って、それは日本の政治家がだらしなく党利党略にかまけ、思想・信条・言論の自由を守り切れなかったところに原因があるのです。

もし、昭和5年の統帥権干犯事件――これは時の政友会幹事長森恪等が海軍をたきつけて政治問題化したもの――や、天皇機関説排撃事件の処理において、政治家がこれを党利党略に利用するようなことをしなかったならば、これらの事件は一部狂信家の策動に止まり、また軍につけ入られることもなかったのです。民主党政権において「政治主導」が叫ばれ、その結果、その政策がいかに”でたらめ”であったかを知って見れば、戦前の日本人が政治家を信用せず、「純粋な」軍人を信用した気持ちも分かるような気もしますが・・・。

つまり、こうした日本人の歴史的な政治不信が、教育を政治から分離しなければ危険だという”思い込み”につながったのです。戦後の日教組運動も、同様の思いから出発したはずです。しかし、残念ながら逆の面からその不信を拡大してしまった。”教え子を再び戦場に送るな”と言う。しかし、それは「不義」なる戦場に「教え子」を送った戦前の教師の「悔恨のモノローグ」であったはず。それを戦後生まれの教師が平和教育のスローガンとして叫ぶ。それは兵役を有する国の教師に通じるか。あるいは、日本に対する不信の表明か?

できることなら、こうした日本に対する不信は取り除きたい、と私は思います。。そのためには、政治は何としても思想・信条・言論の自由を守り抜かなければならないし、政治家には明快な言論をもって党利党略を超えた民主政治を実現してもらいたい。その点、橋下氏が言論で勝負していることは、まあ、いささか無礼な言辞が目立ちますが、民主政治は革命の制度化であって言論による権力闘争なのですから、それは八百長でないことの証明でもあるわけで、平和な社会の政治には、そうした劇場的効果もあってもいいのではないかと思います。といっても政治家が平静を失うようでは困りますが・・・。

そういうわけで、「現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心」について注意を喚起してみたわけです。この機会に、教育委員会制度改革に関する大胆かつ率直な意見交換がなされ、教育と政治の関係が再考され、よりよい教育行財政制度、責任ある学校経営システムができあがることを期待したいと思います。