日本経済の本質的な問題への対応策

松本 徹三

私は、専門の通信の分野ではいつも日経の記事に噛み付いている。長年にわたる記者クラブ制度への依存故か、取材源が偏っていてバランスを欠く記事が多いからだ。(特に世界の動きに疎い。)しかし、経済記事になると別だ。全体を俯瞰するバランスの取れた好記事が多く、特に一面左側の特集コラムは、いつ読んでも分かり易く、秀逸だ。

そういうわけで、今回のこの記事も、半分以上は1月26日から28日までの「黒字が消える」という表題の日経新聞の特集記事の「受け売り」だ。私はヘソ曲がりで「受け売り」は嫌いだが、この特集記事のベースとなっている「事実」と「論理」は全面的に正しいように思えるので、抗する術がない。

しかし、それだけでは芸がないので、この記事をベースにしながらも、「それでは、我々は取り敢えず何をすべきか」という点について、ここで若干の私見を申し述べてみたい。


日本経済の現状は、要言すれば、「抜本的な対応策が講じられない限りは、貿易収支の赤字化に続いて数年以内に経常収支も赤字化し、その上、最近は頼みの家計貯蓄率まで急速に低下しているので、現在90%に達している国債の国内消化率も急激に低下せざるを得ず、財政破綻はいよいよ現実味を帯びてくる」という事だ。

(BRICsという言葉の名付け親であるゴールドマンサックスのジム・オニール氏も、「2-3年で日本とイタリアの国債利回りは同じ水準になるだろう」と予言しているらしい。)

先ず、既に赤字に転じた「貿易収支」は、例え「円高」に若干の修正が入り、震災の影響が消えたとしても、今後とも目覚しい好転は期待出来ない。国内と発展途上国のコスト構造の差は本質的な問題で、万事にコストの高い日本における産業の空洞化は避けては通れない上に、原発の停止で燃料輸入が増加する構図も早急には変えられないからだ。

貿易収支が赤字化して「輸出立国」が夢のまた夢となっても、それはさして悲観すべき事でもない。しかし、その為には、海外投資を促進して海外からの配当や利子の収入を増大させる事が必須だ。「国際収支の発展段階説」はこの事を強調し、米国や英国はまさにそのお手本になっている。(尤も、米国も貿易収支の赤字が尋常ではないレベルにまで来ているので、オバマ大統領も最近「輸出競争力の強化」を強く訴えるようになってはいるが。)

しかし、問題は、日本の海外直接投資が欧米諸国に比して著しく遅れていることだ。2010年末のGDP比で言うと、日本は15%に留まっており、英国の75%、ドイツの43%、米国の33%と比べて、大きく遅れている。投資効率(収益性)においても然りであり、米国の8.9%、英国の7.5%と比べると、日本の4.6%は相当見劣りがする。

思えば、バブルの頂点で日本は過剰流動性の捌け口を海外に求めたが、将来に繋がるような投資や企業買収は殆ど出来ず、結局は不動産を高値で買い漁り、その後値下がりで大損をこいた。尤も、この時点で仮に欧米の有力企業を買収していたところで、海外企業を経営できる人材を持たず、日本型の経営を導入しただけでは、結果はもっと悲惨な結果を招いていたかもしれない。

現時点では、円高と電力不足に背中を押された事もあってか、日本の各企業の海外(特にアジア諸国)への進出には拍車がかかっている。生産拠点をシフトするだけでなく、流通業や外食産業に至るまでが、アジア市場を日本市場と同様に捉えようという姿勢をもつに至ってきているのは、日本がこれから真の国際化を果たしていく上で、極めて望ましい事だ。これまで遅れていたのは残念だが、どんな事でも遅すぎるという事はない。

しかし、ここでも、心配は経営能力の問題だ。既に多くのメーカーの海外における生産拠点が成功裏に稼働中だし、最近海外進出を加速している流通業やサービス産業の経営者は旧来型の人達ではないので、あまり心配する事はないのかもしれない。しかし、長期的に見れば、第一に、海外で通用するもっと多くの日本人経営者やスタッフの育成が、そして第二に、日本人と日本の企業文化を理解する多くの現地人スタッフの育成が、それぞれに急務だと思う。

現在、世界中の目がアジア諸国の成長潜在力に向いているが、地理的にも文化的にもこれ等のアジア諸国と近い日本にとっては、これは有り難い状況だ。上記に述べた人材の育成に関しても、欧米諸国や中近東アフリカなどを対象とするよりは、日本企業にとっては取り組み易いだろう。しかし、このメリットを十分に生かす為には、それなりの努力が必要である事も言を俟たない。

現実に日本に来ている留学生の多くもアジア諸国から来ているから、これ等の留学生にインターンでしばらくの間日本企業で働く便宜を与え、若手社員同士で交流させれば、色々な面で将来への布石になるだろう。留学生達も、自分の出身国に日本企業が進出したときに幹部社員として迎え入れられる可能性があるとなれば、勉強にも身が入るだろう。その事も考慮に入れて、日本政府と日本の大学は留学生受け入れの拡大に更に力を入れるべきだ。

しかし、留学生を受け入れるに際しては、更に留意すべき事がある。日本に住む事は日本語を習得する絶好の環境を留学生達に提供するわけだから、彼等が日本語を習得しようとすべきは当然であるし、それは将来必ず彼等の役にも立つだろう。しかし、全ての講義を日本語でやっている日本の大学の現状は、彼等にとっても大きな問題である事を、我々はもう一度しっかりと認識しておくべきだ。

好むと好まざるに関わらず、国境を越えたビジネスの基本言語は英語だ。日本語やタイ語、インドネシア語といった言語は、お互いに理解できる方が良いに決まってはいるが、それはいわばプラス・アルファであるに過ぎず、これだけに頼るのは妥当ではない。(中国だけは若干例外かもしれないが。)日本の大学でも、最低限20%ぐらいのクラスでは英語で講義し、英語で議論するように変えていく事が、これから企業人たろうとしている日本の学生にとっても望ましいのは間違いない。

折角日本で働きたいと願っているフィリピンの看護師を、極めてレベルの高い日本語能力が必要な資格試験でふるいにかけているような愚行もやめるべきだ。世界中のどんな国でも、自国民だけでは賄いきれない様なサービス分野では、あまり言葉が通じない外国人に頼って、我慢しているのが現状だ。日本人には「どんな場合でも完璧なサービスを受けられて当然」と考えている人達が結構いる様だが、それは「非現実的な贅沢」と考えるべきだ。

さて、次に、もう一つの重要なテーマについて語りたい。それは、高齢化によって、無収入の年金生活者が増えているという現実、そして、その為に、「1990年には10%を越えていた『貯蓄率』(貯蓄額を家計の可処分所得で割った数字)が、2010年には2.1%にまで低下している」という現実についてだ。この問題に対する対応策がなければ、国債消化の外国への依存はもはや避け難くなり、財政破綻の危機は大幅に高まる。

この対応策は、苦痛を伴うものではあるが、やる気になれば単純な事だ。要するに、年金の受け取り開始時期を遅らせ、その代わり、高齢者に雇用機会を与える事だ。「長年ご苦労様でした。さあ、これからはゆっくりと残った人生を楽しんで下さい」という優しい言葉をかける時期を、もう少しだけ後にずらす事だ。

現実に、定年を迎えた殆どの人が、「自分はまだまだ仕事が出来る」と思っているし、実際に仕事をしたいと思っている。収入の事もあるが、それ以上に、何もしないでいては時間をもてあますし、寂しいという事の方が大きいかもしれない。この現実を見るにつけても、少なくとも65歳ぐらいまでは、「毎日やる仕事がない」というのは、普通の日本人の生き方としては、極めて不自然な事のように思える。(80歳になってもまだ一人で農作業をやっている人達を見ると、特にそう思う。)

しかし、私は「定年の延長」は提案したくない。(定年自体は逆に55歳ぐらいにまで下げてもよいぐらいかも知れないとさえ思っている。)これまでの牢固たる年功序列制の名残で、歳をとって社内での階級が上がると、あまり仕事もしていないのに幅だけきかせている人達が多い日本型企業の問題点を、「定年の延長」によって更に増幅させたくはないからだ。

現状のままでも、既に、能力のある若手社員の意欲を削ぎ、組織を不活性化させているケースが散見される。従って、定年は定年として、きちんとけじめをつけた上で、その年齢に達した人には、その能力とやる気に応じて、「第二の働く場」を斡旋するのが正しいやり方だと思う。

実は、この問題は古くからある問題だ。私自身も、1990年代の半ばに大企業の中間管理職を勤めていた時には、先輩の定年後の仕事を見つけるのに苦労をした経験がある。その時私が考えたのは、結局日の目を見る事はなかったが、「企業間の相互人員融通制度」とでも呼ぶべきものだった。

年配者を敬う儒教精神が少しは残っている上に、長い間年功序列制度に慣れ親しんできた日本の企業では、高齢者は何かと先輩風を吹かせたがるし、自分より若い人間に命令されると、何となく惨めな気持になる人も結構多い。命令をする方も、相手が年配者だと少しは気を使う必要があるので、出来るだけ敬遠して、若い人間を遠慮なくこき使いたがる。この心理を断ち切る為には、お互いに「先輩後輩の意識」を全く持たずに済む状況を作り出す事が必要だ。

私が考えた「相互融通制度」は、「異業種で、全く取引関係もない企業の間で、相互に定年を迎えた高齢社員を補助人員として融通しあう」という制度だ。つまり「A社で幹部社員だったXさんは、定年後、もし希望するなら、全く違う業種のB社に補助職員として採用されて、ずっと年下のYさんの指揮下で働く」という制度だ。

これなら、XさんもB社では新人なのだから、どんな扱いを受けても、そして収入は仮に半分以下になっても、「身すぎ世すぎ」と割り切れるだろうし、Yさんも気を使わなくて済むだろう。場合によると、「全く違う分野でのXさんの知識や経験が、思いもかけなかったような新鮮な視点をYさんに与えてくれた」というような「思いがけぬメリット」が生まれる事もあるかもしれない。

「高齢者」とは、人間が考え出した言葉に過ぎず、よく考えてみると、様々な能力や考え方を持った色々な人間を、一つの基準だけで区分けしようとする極めて乱暴な言葉だ。十羽一からげに「高齢者」と呼ばれる人達も、その意識はまちまちだろうし、「高齢」である事は、「権利(有利な事)」の様でもあるが「義務(不利な事)」の様でもあり、一種複雑な感覚を持っている事だろう。

しかし、「高齢化」の問題が国の経済運営に大きな影を落としている現在の日本では、そんな感慨にふけっている余裕はない。「高齢化」が問題なのなら、取り敢えずは、一定の年齢の人達を「高齢者」と呼ばない事にすれば、それだけでよいのではなかろうか? 憲法の改正も要らないし、広辞林を書き直す必要もない。国際的に摩擦を起こす事もない。

そんな事をしたら「若者の雇用機会が更に減る」と言う人もいるかもしれないが、一方では労働人口の減少を懸念する声も多いのだから、若者には高齢者に負けないだけ頑張って貰うしかない。