自由報道協会の自壊

池田 信夫


自由報道協会賞というのを知っている人は少ないだろうが、賞の趣旨と無関係な部分で話題になっている。その授賞式で、大賞を授与する日隅一雄なる人物が

私は有名じゃないので、昨日、東電の前でチベットの高僧のようにですね(焼身)自殺をしてですね、名前を上げたほうがいいのかなと(笑)悲愴な決意でここに来ているわけですけども(笑)

と笑顔で話し、会場は爆笑に包まれた。これに対してチベット人から「日本人全員がチベットの事に関心を持たなくても良いですが、我々の事を馬鹿にしないで欲しいです」という抗議が寄せられ、多くの批判が出ている。


大賞は「お待たせしました。福島の新生児の中から、先天的な異常を抱えて生まれて来たケースについてスペシャルリポート&インタビューします。スクープです!! 」と奇形児の誕生をうれしそうに報告した岩上安身氏、自由賞が「福島に永遠に人は住めない!」と風評をまき散らしている山本太郎氏、そして「記者会見賞」は小沢一郎氏の予定だったが、会員の抗議で中止された。高田昌幸氏

この賞は報道する側の諸活動が対象になるものだとばかり思い込んでいました。小沢氏の政治姿勢や小沢氏の事件に関する検察の姿勢などに関係なく、報道する側へのアワードと一緒に、通常は報道される側の権力者が並び立つことに強い違和感を感じております。従いまして、今回のノミネートは辞退させていただきたく思います。

と批判し、江川紹子氏は協会を脱退した。この他にも自由報道協会は、バズビーの会見などで放射能デマをまき散らし、言論に対する刑事告発で科学者を萎縮させるなど、有害な活動を続けてきた。

私も記者クラブや電波利権などの既存メディアの閉鎖性についてはかねてから批判してきたが、批判する側はされる側より高い基準で事実を検証し、その誤りをたださなければならない。ところが3・11以降に自称ジャーナリストが大量にばらまいた情報は、上にみるようにほとんどが流言蜚語の類だった。

どんなメディアでも、若い記者は「反権力」のポーズを取りたがる。それをコントロールしてバランス感覚をつけるのがジャーナリストの基礎的な訓練である。特に情報の「裏を取る」作業は、取材そのものより手間がかかる。自由報道協会に集まっているのは、そういう訓練を受けたこともない極左的な跳ね上がりである。

これはソーシャルメディアが成熟する途上では、やむをえないことだろう。新聞だって戦前は党派的で、戦争のときは翼賛報道に流れた。それが100年近くかけて成熟し、ようやく現在の品質に到達したのだ。ソーシャルメディアも、初期に玉石混淆になるのはしょうがない。読者も事故の直後には、恐怖に駆られてセンセーショナルな報道に飛びつくのはやむをえないが、今となっては誰が玉で誰が石かは明らかだろう。

「記者クラブ対フリー」などという図式には意味がない。記者クラブにも優秀なジャーナリストはいるし、フリーにもだめな記者がいる。最近は新聞記者も個人アカウントで情報を発信するようになり、これからは個人の実力が今まで以上にきびしく試されるようになるだろう――ということを明らかにした点で、自由報道協会にはそれなりの意味もあった。1周年を迎えたのを記念して、もう解散してはどうだろうか。