大学の審査考査に指導教官が加わるべきか

石田 雅彦

ネット上を逍遙徘徊していたら、こうした議論(「博士論文審査員に指導教員が入るかどうか」に関してピカチュウが見た/呟いたこと)があった。要するに「博士論文審査に指導教官は加わるべきか」というわけなんだが、論文審査の方法は世界的に各大学各学部によって違う。指導教官が加わらない機関もあれば、積極的に加わっている大学もある。審査考査に指導教官が加わることは、東大の早野龍五教授が言うような「当然の常識」では必ずしもない。


米国大学の大学院にいる、ある日本人教授にこの件について聞いてみた。彼は日本で評価された工学系の研究者だが、米国の公立大学にヘッドハンティングされて十数年前に渡米した人物だ。

彼が所属する学部では、指導教官を含めた5人程度の審査委員会で博士論文を審査したり卒業考査をする。そのメンバーについては、指導教官以外は学生が指名し、他学科から2名程度を入れなければならないそうだ。

彼は指導教官が参加して審査する理由を、研究はテーマの選択によって成果が出たり出なかったりする、それは学生のせいではない、学生の能力や研究への態度を最もよく知るのは指導教官であり、もちろん研究成果も含め学生の資質を評価して論文を審査したり卒業の考査をすべきだ、と言う。つまり、研究テーマの選択まで学生の責任にするのは酷であり、成果主義に陥らず学生の能力や将来性、研究への真摯さを含めて評価しなければならない、というわけだ。

彼の大学院では、過去に学生から提訴されたことがあった。これは博士論文の審査ではなく卒業考査についてなんだが、本来の卒業までの期間が大学の正当でない卒業考査のせいで1年延長しなければならなくなった、と大学や学長、学部長を相手に訴えたのだ。訴訟社会の米国らしい逸話とも言えるんだが、それ以来、彼の大学ではそれまでにも増して公平性や中立性をもとに厳正慎重に学生を評価するようになった。

数年前、2年連続で博士論文を受け取り拒否された東北大学の大学院生が自殺した、という事件があった。今日の読売新聞に掲載された野依良治氏の「地球を読む」にもあったが、日本の大学組織が「徒弟的」ということはつとに有名であり、こうした制度のもとで指導教官が論文の提出可否の権限を持っていれば、それは学生の将来について生殺与奪の権を握るに等しい。

日本では、上記の事件で見るように審査の公平性や中立性は、学生にとって必ずしも担保されていない。日本の科学技術研究開発の現状は、得てして論文数至上主義や成果至上主義に陥りがちだ。海外の有名科学雑誌に論文が掲載されることばかりに血道を上げ、基礎研究はないがしろにされ、金になり目立つ応用技術にばかり科研費が集まる傾向も確かにある。

野依氏の「地球を読む」では、日本の科学技術分野において海外からの人材供給も含めた若手研究者の育成、研究開発方法の見直しや行政関与の改革などが急務、と論じている。事業仕分けで科研費がヤリダマに上げられたのは記憶に新しいが、財政逼迫の中、今後も科学技術開発費に大きな伸びは見込めないだろう。少子高齢化で日本人の若手の研究者もそう急に多くはならず大学の役割も変わらざるを得ない。

学生が自分のやりたい研究分野を選ぶ際、指導教官が審査に加わる学部学科かどうか、いちいち気にしなければならないような環境は健全とは言えない。紹介した米国の日本人教授が言うように、理想を言えば本来なら指導教官が審査考査に加わるべきだろう。だが、それが「世界の常識」かどうかは別にして、こうした日本の大学の現状をみれば、手間ひまカネがかかるといえど早野教授が言うように少なくとも今は加わるべきではない。