有権者が政府と政治家と政治に求めるもの 

小幡 績

橋下氏は、この観点からすると、王道による必勝法を採用している。


日本では、人々は政府を信用しているのであろうか。不思議な現象がよく起こる。政府を信用できるか、と聞くと、ほとんどの人は信用できないという。官僚は特に不人気で、政府と言えば、官僚、官僚がまず第一に悪い。政治家ももちろん悪いが、政治家が悪いのは巨悪を企む官僚のいいなりになってしまうことだ。

しかし、政府とは、議会で多数派を占めた議員たちが作る内閣により支配されているから、政府を信用していないというのは内閣を信用していない、というのが普通だ。しかし、政権政党への信用度は、日本では内閣支持率で表され、街角で「政府支持率」という聞き慣れない言葉でアンケートを採れば、財務省の役人か、そのときに旬の(たとえば年金なら厚生労働省の)役人のイメージで多くの人が答えるだろう。

さらにおかしいのは、政府をこれだけ信用していないのに、年金のためには増税が必要で、それは仕方がない、という意見が多いことや、ベーシックインカムなどという極めて危険な政策を、政府を信用していない人々が主張していることだ。後者は左翼的な人々だから、彼らの思想としては、政府批判と同時に弱者保護であるから、整合的なのかもしれないが、現実の政策としては最も危険だ。

なぜなら、政府を信用していない、ということは、政府のやることを信用していない、と言うことだから、お金を配るとなれば、きちんと効率的に配られることも信じられないということだ。それならば、政府の役割が極めて大きくなる、直接の現金配布という政策は最も避けるべきものであるからだ。

この矛盾が生じる原因はいくつかある。まず、メディアの議論では、政策自体ばかり議論されて、その政策の実施プロセスが想定されていないことだ。所得税減税の代わりに現金を配ったことがあったが、あの時初めて人々は現金を配ることの難しさを少し感じたようで不満が続出した。年金問題で再度注目されている負の所得税やベーシックインカムとは、所得の少ない人は、納税の代わりに現金を配ると言うことになるが、こうなると本格的な所得隠しが始まる。スペインの若年失業率は50%となっているが、実際には、就業しつつ失業保険をもらっている場合がかなりある。ギリシャが財政破綻した一つの理由は、消費税を消費者もお店も払いたくないから、インボイスをみんなでごまかしたということで、これが社会に広く及んだから破綻した。実際には、政策は、そのスキームの中身よりも、実施過程が重要なのであり、実施において不正が起きにくいものに絞って実施する必要がある。しかし、もちろん、政治家は政策を打ち出すことによって票を得ようとするからそんなことは考えないし、メディアも、楽をする場合には、同じ思考回路をとる。もう少しメディアに力があれば、実施の不正を暴くことが米国ならピューリッツア賞ものとなり、みんなが追うことになるのだが、日本ではそういう雰囲気ではない。

しかし、もっと根源的な理由は、政府に対する信頼が元々高すぎる、ということである。政府は基本的にちゃんとしている、というのが、無意識の中にあり、また歴史的にもあり、巨悪とも思っていないし、非効率とも思っていないのだ。だから、何かが起こると、政府が何とかしろ、と怒るのだ。本当に信用していなければ、政府、おまえは失せろ、俺たちにやらせろ、ということになる。

ここに、もう一つの問題がある。都市部の人々は、政策論議はエンタメ、エンターテイメントで余暇の活動なので、真剣に考えていない、ということだ。遊びで議論するならば、実施の難しさなどは、おもしろくないし、解決策も思いつかないので、議論が盛り上がらない。それよりもアイデアを競うような場面が盛り上がるので、そちらばかりを議論することになる。だから政策論議は、非現実的な議論ばかり行われるのだ。リフレという議論も同じだ。

しかし、このお遊びにも、ようやく都市部インテリ層も飽きてきたようで、政策論争は人気が無い。テレビの政治討論番組も、ワイドショーでの政策議論も、政策理念の議論も、大きな政府小さな政府という議論も受けない。受けるのは、両極端なものだ。実は、政策の細部を細かくマニアックに議論するのは、ワイドショーほど受ける。ワイドショーは主婦だから、わかりやすく国家財政を家計を比喩にして説明する、などという主婦を馬鹿にした考えは止めた方がいい。視聴者は、目が肥えているから、本物のマニアックな議論を求めているのだ。実際の役人と政治家の交渉プロセスとか、根回しや駆け引きのドキュメンタリーなど、あるいは制度の細かいからくりなどか受けるのだ。これで、年金問題は一気に解決、なんていう嘘はすぐに見抜かれる。

そして、もう一つのウケる道は、政治そのものを否定する議論だ。もう政治にはうんざりだ。政治のにおいもかぎたくない。だから、政治のにおいのしない政治家、橋下市長がウケるのである。

橋下氏の戦略は、実は古典的でオーソドックスだ。米国なら、ワシントンの外から来た、ということを州知事の大統領選候補者は、ほとんど主張する。米国ではワシントン、日本では永田町、ここの論理、においはみな大嫌いなのだ。それでいて、政治は必要だから、誰か代わりに政治をやってくれ、ということになる。だから、カリスマが求められる。日本人はカリスマがリーダーになることは嫌いだが、自分たちで手を汚すのは面倒くさい。だから、自分たちと一緒で庶民的でありながら、ワシントンと、いや、永田町の政治家も霞ヶ関の官僚もやっつけて、庶民が望むと言われる、ごく普通のポピュリズム的なことをやる人を求めているのだ。

橋下氏は、これにぴったりで、あるいは、彼はぴったりになるように演じていて、これまでは完璧だ。だから、橋下氏の化けの皮がはげると思っている人々、似非インテリ達の議論は間違いで、最も論理的に王道を通って、永田町を攻略してきたのだ。

今後は、前に述べたように、周りのインテリ達の動きが明暗を分けることになりそうだが、政党の連携は基本的にはしないだろう。永田町の外でないといけないからで、みんなの党とも協力はするが、一緒にはならないだろう。自分たちの信念を実現するために、永田町の論理から飛び出して、こちら側に来るのなら歓迎、というスタンスを維持するだろう。だから、98%の政治家は逃げ出す、と橋下氏は繰り返しているのであり、2%は永田町を飛び出せば仲間に入れる、という余地を残しているが、どんな形になっても永田町攻略のリーダーシップは譲らない、ということだ。

2月末の個別政策議論をどうかわすかが、彼らの第一の関門だろう。