本書は、その一連の論文のうち細かいデータを省いた一般向けの論文をまとめたものだが、著者の見解は微妙に変化している。10年以上前に出た初期の研究ではシカゴ学派的なトーンが強かったのだが、その後の多くの論争を経て、本書では司法的な解決が効率的とは限らないとしている。
伝統的な経済学では、規制の根拠は「市場の失敗」に求められている。通常は市場にまかせることが望ましいが、費用逓減や外部性などがある場合には公正で有能な政府が介入してそれを補正する、というのが公共経済学の教科書に書かれているお話だ。しかし実際の政治家や官僚は、著者が“The Grabbing Hand”で明らかにしたように、利己的で業界の利益にキャプチャーされやすい。彼らも私的利益を最大化する「経済人」と考えて制度設計を行なう必要がある。
司法は、常識で判断できる個別の損害賠償については効率的な紛争解決手段だが、専門的な問題を裁判官が判断するのは非効率的で、社会的コストが高い。たとえば大気汚染の被害を最小化する方法として、コースの定理が正しいとすれば規制は必要なく、法廷ですべて解決できるが、実際には多くの原告が法廷で汚染を立証することは困難なので、官僚が規制したほうが効率的だ。
複雑な問題については、大企業は資金力にものをいわせて膨大な立証ができるので、専門的知識のない裁判官は企業に弱い。金融のように社会的影響の大きい問題では、自由にやらせてバブルが崩壊してから訴訟で解決するというわけには行かないので、事前の規制が必要だ。情報開示や消費者保護が不十分だと、金融市場のようなリスクの大きい経済活動は成立しない。
一般的にいえば、問題が単純で当事者の責任能力が高い場合には司法的な解決が望ましいが、社会が複雑化して要求される知識が専門化するにつれて、規制のほうが効率的になる。しかし参入規制や雇用規制など個別利益に介入すると、非効率で腐敗がひどくなるので、規制は最小限の一般的ルールに限定すべきだ、というのが本書の結論である。
日本の司法改革は、失敗したといっていいだろう。法科大学院は大量の浪人を生み出し、肥大化した日弁連はサラ金を食いつぶす血に飢えた訴訟の鬼と化し、検察への信頼も地に落ちた。霞ヶ関のみなさんは本書を読んで、大きな政府か小さな政府かという対立ではなく、「賢い政府」のあり方を考えてほしい。