シー・シェパードは日本の調査捕鯨やイルカ猟を妨害しているものの、いくら日本側が身柄を拘束したところで、止む気配は一向にありません。ではクジラ・イルカ猟をやめれば良いのか? ここでは割愛しますが、複雑な理由がからみ合っている以上、すぐに止めることは現実的ではありません。
先日、シー・シェパードのイルカ漁妨害部門「Cove Guardian」の一員であるErwin Vermeulen氏が63日間の拘束の後、先日無罪判決が下され解放されました。日本国内の世論はナショナリズムの煽りを受けて拘束を支持したものの、同時に無罪判決に呆然としたことでしょう。しかしながら、Vermeulen氏は母国オランダに帰国した後、国営ラジオ・ニュースやメディアの取材を受けるなど、こちらでは予想も出来なかった反応が起こっています。
Erwinはシーシェパードやオランダから来た家族・50人の支援者に挨拶を受けた。国営ラジオ・テレビメディアの多数の代表者も彼の勝利の帰還を捉えるためにそこにいた。Erwinは監禁中の皆の持続的な支援に感謝の意を述べた。彼は空港で集まった集団に対し、試練が無駄には終わらなかったことは喜ばしい、とも語った。彼の経験は、太地町のイルカに対して続く残虐な行いに世界の注目を向けることを意図したものだ。実際、彼は最初それを目的にCove Guardian(入江の守護者)になったのだ。
国営メディアもErwin氏の帰還に駆けつけている様子を見ると、オランダ国内の関心は日本よりはるかに高いことがはっきりとわかります。
日本では映画「The Cove」(2009年)以後、多くの世論形成がなされ、雑誌・テレビメディアでも盛んに話題にされました。しかし、ある程度時間が経つとぱったりと報道は止み、世間の関心は他に向いてしまいました。今ではニュース検索をかけても、日本国内のメディアはほとんど報道していません。
活動家が日本で逮捕され、本国で賞賛を受ける。この構図は中国漁船による日本の領海侵犯と似ています。この場合は、身柄を拘束されるものの本国の圧力により帰還、本国の祝福を受け、日本を仮想的とすることで団結を図る。そして、世界中に発信されることで宣伝としても利用され、身柄が拘束されたことにより余計彼らの被害者としての立場が強化され、「功績」として利用されてしまう結果になりました。
日本側は「妨害すれば逮捕もありうるぞ」という姿勢を見せることで抑止力にすることが狙いなのでしょうが、逆効果になる場合が多いのかもしれません。では日本側はどのような姿勢をとるべきなのでしょうか。
確かに、IWCでは日本の行動に反対意見が続出し、国際社会では多くの非難を浴びていますが、一対一の会談ではそこそこの成果を上げています。
オーストラリア(豪州)のラドウィッグ農水林業大臣は12日、鹿野道彦農林水産相と農水省内で会談し、豪州の警察当局が南極海における日本の調査捕鯨の妨害活動の捜査に着手していることを明らかにした。
鹿野氏は反捕鯨団体「シー・シェパード(SS)」による妨害活動に、「抑止策を豪州政府内でも十分検討し、実行してほしい」と要望した。
一方、ラドウィッグ氏は豪州が調査捕鯨の廃止を求めていることから、「捕鯨に対して日本と豪州の立場は異なる」と説明。その上で、「法律順守は当然必要であり、すでに警察、海上保安当局が(昨年度の)妨害活動の捜査を開始している」と応じた。
SSをめぐっては、豪州当局はSSの船の寄港時に立ち入り検査を実施。調査捕鯨を行う「日本鯨類研究所」などがSSと代表のポール・ワトソン容疑者=傷害容疑などで国際指名手配中=を相手取り、妨害の差し止めと捕鯨船団への接近禁止を求める訴訟を米ワシントン州の連邦地裁に起こしている。
「世界VS日本」では、弱腰にならざるを得ないものの、一対一では一定の効果があるといえます。オーストラリアは同じ太平洋の貿易相手国同士ということもあり、経済上の問題が発生することを懸念して、オーストラリア政府側が譲歩したという見方をすることもできますが、他国との交渉においても成果を望むことは出来るでしょう。
確かに、当時のラッド首相が独断で提訴へ踏み切ったために、周囲の閣僚が後に懸念し、首相に圧力をかけたのかもしれません。しかし、会談をする事自体の意義は非常に深いことが伺えます。
ただ、今の時点で関係国へ地道に外交努力を重ね、(日本政府が直接にではなく)本国政府がシー・シェパードに働きかけを強めたとしても、彼らの立場を強めるだけで、日本が国際社会から孤立するのをますます促してしまいます。
よって、国際社会がシー・シェパードへの圧力を容認することが考えられる当事国へ働きかけを外交交渉によって実現することで、シー・シェパードの行動範囲は狭まり、テロ活動を行うこと事態が意味のない事になってくるでしょう。日本政府はまず長期的な目でクジラ・イルカ問題を見つめ、議論の場を設けることから始めるべきでしょう。