もう一つの 「官僚たちの夏」

津上 俊哉

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小説 「官僚たちの夏」 (城山三郎著 新潮社刊) は1975年に出版されたが、「国家を熱く語り合い、産業振興に邁進する役人」 の姿は、いまも日本人の郷愁を誘うらしく、昨夏には改めてTBSでドラマ化された。「坂の上の雲-戦後経済版」 とも言える。かく言う筆者も大学時代にこの本に魅了されて通産省に入った、ところがある。


しかし、役所で仕事をし勉強もしていくと、本書で描かれた 「特振法」 的な産業政策に疑問を覚えることが多くなった。もちろん、1950年代と1980年代という時代の違いがあるが、それだけではない。根底にあるのは 「市場経済」 というものをどう捉えるかという 「経済」 観の違いである。

  「官主導の産業政策」 は上手くいかない

「市場は失敗する」、「官」 の指導があれば、経済はもっと良くなると見るのが官主導の産業政策肯定派、これに対して、いやいや産業・経済の運行の瞬間、瞬間を観察すれば、「官の介入」 が欲しくなる場面はあるだろうが、「官の介入」 を制度化、常態化することによる弊害は 「市場の失敗」 を上回る、と見るのが市場経済肯定派と言えるのではないか。筆者は後者に立つ。チャーチルは 「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」 と言ったそうだが、「市場経済」 もなにやら似ている。

「産業政策」 にも強弱、硬軟いろいろあるが、「官主導の産業政策」 は上手くいかないと思う理由は、大きく3つある。

第一は 「官の介入」 は 「平等性」 「公平性」 を求められるので、「効率」 を犠牲にしがち、ということだ。政治的に重要な産業ほどそうなる。例えば、設備投資を許可制にすると、業績が伸びている優良企業A社に許可を出し、落ち目のB社には出さない、という  「不公平」 が正当化しにくい。平たく言えば、役人はそこで文句を言うb社長に 「それはあなたよりもa社長の方が経営の才覚があるからですよ」 とはなかなか言えない。よって、役所がこの種の 「枠」 配分をするときは、たいてい現在の設備や生産量に応じた 「プロラタ」 (“Pro Rata”、比例按分) をやることになる。でも、それでは 「官の介入」 が不効率を経済に不断に埋め込む作用を果たすことにならないか?

もちろん、経済を 「優勝劣敗」 「市場の淘汰」 一辺倒で運営すれば、猛々しい資本主義が横行し、非人間的きわまりない社会が出現するから、市場の失敗を是正・補完する 「官の介入」 は不可欠だ。社会保障制度や反独占政策は代表例である。しかし、それは 「官主導」 とは別物の、補完的、控えめな 「介入」 である。

「官主導の産業政策」 は上手くいかないと思う第二の理由は、「官の介入」 が許認可や慣行化した行政指導によって 「制度化」 されると、企業は 「官の出方」 を先読みして裏をかく行動に出るようになるからである。設備過剰による 「過当競争」 を是正するため、政府が投資抑制に乗り出す、といった場合が好例である。過当競争が深刻化し始めると、抑制措置の前に 「駆け込み競争」 を誘発してしまい、過当競争はいよいよ激化してしまう。80年代に大店法に基づいて行われた大型小売店の出店抑制などは、その典型だった。

第三の理由は、「官の介入」 が制度化されると、役所は 「権限」、「権益」 の維持それ自体を目的として行動するようになり、手段だったはずの 「介入」 が本末転倒を引き起こすということである。これについては多言を要しまい。

  「通商派」 官僚の証言

「官僚たちの夏」 とは対照的な一冊として 「戦後産業史への証言(一)」 (1977年 毎日新聞社刊) がある。何時、どういうきっかけで本書を読んだのか記憶が定かでないのだが、そこに収められた今井善衛元通産次官の言葉は、筆者に鮮烈な印象を遺した (「自由化の推進」149頁~)。

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今井は 「官僚たちの夏」 に 「玉木」 という仮名で登場する 「通商派」 である。戦中・戦後の統制経済をやった経験から 「官の経済介入は上手くいかない」 という信念を持ち、かつ、戦後の世界経済がIMF/GATT中心の 「自由貿易体制」 に向かうことを早くから見据えて、「風越」 (佐橋滋) ら 「民族派」 と一線を画した通産官僚である。本稿末尾に、同書から今井の言葉の 「みそ」 の部分を抜粋・引用してご参考に供する。

冷たく言えば、昭和30年代の通産省 「民族派」 というのは、世界の趨勢が見えていない 「KY」 だった。「世界の趨勢」 というのは、第二次世界大戦前に起きた通貨切り下げ競争や保護貿易主義 (経済ブロック競争) が戦争を招いたという反省から、戦後IMFやGATT (WTOの前身) による 「戦後秩序」 が誕生していたことだ。戦争直後の混乱期は、特例として貿易制限 (関税よりもっと強烈な外貨割当による輸入制限が中心) が認められていたが、戦後10年を過ぎる頃から各国経済が復興し始め、IMF/GATTの本旨に従った「自由貿易」 体制が本格始動したということである。自由化はまず、貿易収支を理由とした輸入制限 (外貨制限) をしないこと (=IMF8条国の義務) から始まり、やがてGATTによる関税引き下げ (ラウンド交渉) やOECDを舞台とした資本自由化へと発展し、戦後世界経済の成長を助けた。

「官僚たちの夏」 には、特振法のオルグに出かけた風越に向かって銀行界が極めて冷ややかな反応を示す場面が描かれている。同書では、部下に慕われる熱血漢だが傍若無人な風越と慇懃な銀行紳士たちの肌合いがまったく合わない風に描かれているが、それだけではないだろう。本稿末尾に引いた今井の回顧に登場する東銀の堀江薫雄 (や興銀の中山素平も登場する)、池田勇人総理らの眼には風越たち通産 「民族派」 が 「世界の趨勢を知らぬ時代遅れの田舎者」 に映っていたのではないか。

民族派が世界の趨勢に暗かったことには理由がある。佐橋、今井らの世代は「資本主義=終末」 観が世界を風靡し、共産主義と国家社会主義が盛行した1930年代に役所に入り、「1940年体制」 (「国家総動員」 体制) 下で中堅となった世代だ。敗戦後、GHQは役所にはあまり手を付けなかったから、人と行政手法に強い連続性があったことは野口悠紀雄教授の言うとおりであり、筆者が役所に入った80年代になっても 「原課行政」 には 「1940年体制」 の残滓が残っていた。

加えて、戦後日本は国内で喧々囂々の討議を経ずに、したがって十分な自覚や信念のないままIMF/GATT体制に加入した、という経緯がある。当時はまだ「占領」が続いていたからである。1949年設立直後のGATTでは、GHQ係官が“on behalf of occupied Japan”としてオブザーバー発言した記録が残っている。IMF加盟申請は1951年、加盟はサンフランシスコ講和条約の1952年、GATT加盟申請は1952年、加盟は1955年のことだ。条約のことであるから外務省は占領当時も参画していただろうが、通産省では、海外勤務で蒙を啓かれる経験をした極少数の人 (今井もその一人) しか意識していなかったのではないか。そう考えると、戦後に入省した 「若手」 多数が特振法を強く推進した理由も推察できる。

「官僚たちの夏」 の著者城山三郎にもIMFやGATTは見えていない。それは海外経験として本書に登場するのが、風越の部下 「牧」 がフランス勤務で学んできた 「官民協調体制」 くらいしかないことで明らかだ。(但し、改めて本書を読み直してみると、城山三郎は風越と彼を慕う若手に、人間として強い共感を感じてはいるのだが、彼らの考え方と行動には一定の距離を置いていることが感じられた。)

  栄光の通産省をもたらしたもの

けっきょく、その後の通産政策は世界の趨勢に従って、貿易自由化、資本自由化を進めていくことになる。「特振法」 にかけた民族派の願いは儚く潰えて、通産省が産業の保護・統制手段を次々と手放していった過程だった。

もちろん、個別産業では 「特振法」 的要素も残存した。最も強力な色合いを遺したのは石油、航空機といった 「業法」 ができた分野だろう。通産省が最も強力に 「産業政策」 を推進したが、最も上手くいかなかった分野である (筆者はその両方を経験した)。中間に位置するのは電子産業、これはまあまあ成功した。いちばん発展したのは自動車産業。今井が述懐するように 「いちばん保守的で (初期の) 自由化に激しく抵抗した」 業種だが、実はその後、通産省の自動車産業政策には見るべきものがない。業界人は戦後の発展のきっかけとして、石油ショックや米国で導入された排ガス規制 (マスキー法) を挙げる。世代交代による忘却のなせる業もあるだろうが、こんにち 「政府のおかげで発展した」という意識は薄い。このように、「特振法」 的な産業政策は一部で採用されたが、その効果と影響力は限定的だった。

総体として見たとき 「産業政策の成功」 と評価できるものがあるとすれば、今井が述懐したように、IMF/GATTといった 「世界の趨勢」 (外圧) を挙げて 「保護はやがて撤廃されるから、早いうちに覚悟と準備をしろ」 という 「指導」 を巧みに行い、それが企業や業界の成長に欠かせない正しい 「予見」 を与えたということであろうと思う。言ってみれば 「保護・統制の撤収戦」 が産業政策の精華だった、という皮肉な結末である。

この過程で産業界は力を付けて、やがて 「世界一」 へと駆け上がっていく。筆者はある意味で、この時期の通産省が目先の権限縮小に抵抗せず、むしろ 「自由化」 に巧みに乗ったことが、後の通産省の栄光をもたらしたのではないかという気がする。結果的には 「通商派」 (市場派) が 「特振法」 後の主導権を取ったことが幸いしたということである。

  役所と官僚の 「人事考課」

その功労を以て、通産省は 「一流官庁」 と見なされ、他省が羨む処遇 (豪華、多数の天下り先etc.) を得た。その過程は、担当部門の調整を上手くやり、業績に貢献した社員が会社の上級役員に出世する様に似ていなくもない。

同じ喩えを用いるならば 「失われた20年」、この社員のパフォーマンスはどうだったであろうか。幹部に世界の趨勢を見据えた長期展望 (中国語で言う「遠見卓識」) の持ち主がどれだけ居たであろうか。おまけに90年代は、政治が官僚から奪権を図る動きが起きた (「遠見卓識」 で官僚を凌ぐというより 「バッシング」 頼みの奪権でしかなかったけれど)。

筆者は90年代の後半をほぼ北京駐在で過ごした。赴任前には 「国家は我々が動かす」 という官僚の 「気負い」 が未だ遺っていたが、帰国してみたら 「私たちは選挙の洗礼を受けている訳でもないので…」 という 「俯き」 目線が主流になり、代わりに 「大臣が大臣が…」 という雰囲気に変わっていた。

それは喩えて言えば、事業本部長・常務だったのが上に統括副社長が来て、権限は実質平取クラスに降格されたようなものだ。おまけに会社の業績は終始右肩下がり、と来ては、処遇がダウンするのも 「世のことわり」 だろう。

若い後輩たちには、今井のような 「遠見卓識」 を具えることを期待したい。そのためには勉強、研鑽が必要だ。バッシングに悩み、意義を見出せない消耗仕事に囲まれる毎日かも知れないが、「見るべきもの」 を具えれば、「見る人は見る」 のである。
平成24年 4月28日記

津上俊哉


「戦後産業史への証言(一)」 「自由化の推進」 抜粋
注:[ ] の見出しは筆者が付した

  [編者評]

佐橋氏の動に対して今井氏は・静、冷静で理論的で物静かなゼントルマンである。氏は昭和30年代後半の貿易自由化に対して、自由化推進を主張し続けた中心的存在である。自由化の原則には賛成せざるを得なくても、個々の企業は、自分たちの問題となると、当然のことながら激しい反対をくりひろげた。こうした事態にたいして、冷静にことに処した今井氏は、当時の通産省のなかでは少数派にすぎなかった。

にもかかわらず、なぜあえて自由化を推し進めようとしたのか。それは、輸入割当てをはじめとする管理された貿易が、いかに腐敗を生むかという、氏のなまの経験であり、こうした根を一掃したいという、氏の激しい情念であった。物静かな語りくちの奥に激しい闘志を感じさせる。それが、氏を孤独のなかで、自由化行政の中心に位置させ、昭和30年代の通産行政をつくりださせたのかもしれないのである。

  [今井の経済観]

- 諸先輩にいろいろ聞きますと、戦争中の計画経済や戦後のいろいろな計画に関係されて統制経済をやられた人ほど、経済統制はむずかしくてダメだという実感を持たれたと思うんですが、今井さんはどうですか。

今井 私もまさしくその意見なんですよ。私は統制の中心的なことばかりやっていたんですが、どんなことをやったってヤミがありますね。統制計画なるものも、つくるときは非常に正確に、自信をもってつくるんですけれども、われわれの予想を上回る変革が発生する。あのころ(戦争直後)海外の影響はそれほど受けないときでしたが、それでも与件がいろいろ変化していって、守られないんです。とくに公定価格なんかつくっても、それは安定した需給関係がもとですから、メチャクチャな価格変動が起こると、結局、物資統制も価格統制も、漸次はずしていかざるをえなくなった。
・・・
それから為替管理、輸入外貨資金割当制の障害も非常に出てまいりました。というのは割当て自体が、非常に利権化してしまったんです。砂糖を輸入すると、その輸入価格の2倍か3倍に売れて、ほろもうけになる。…ですから、割当権が価値を生じまして、ものを輸入しないで、輸入割当権の転売がどんどん行われる-そういう弊害が起こってきた。…砂糖のほか、たとえば綿花とか羊毛とか油とか、いろんなものの輪入権自体が利権化して、価値を生じて、ものを輪入しないで、権利を転売しただけで利益が出る。そういうやり方について日本経済が復興するに従って、非難の声が起こりつつありましたね。

  [貿易自由化への流れ]

その当時、繊維産業のあり方を基本的にどう考えたらいいか-とくに原料の輪入間題、設備過剰間題、それから当時、天然繊維と化学繊維、合成繊維の競合問題、次第にナイロンなりテトロンなりが伸びてくるわけですから、これらを基本的にどう考えるかということで、繊維総合対策懇談会を33年10月につくったんです。

- 参加されたのはどういう方ですか。

今井 中心は、東京銀行副頭取の堀江薫雄さん(現在同行相談役)でした。堀江さんは次のようなことをいっていた。要するに、国内には割当てによる弊害間題があるし、外にはともかく貿易自由化の声、とくにIMFではもう貿易制限の時代じゃないだろうという機運がある。各国は、外貨資金もある程度豊富になってきたから、外貨資金の節約のための輸入制限はやめようという、IMFの14条国から8条国移行というIMFの基本的精神に基づく動きが出てきた。早晩日本にもその圧力がくるだろうと。 それで堀江さんを中心にして、もう少し大所高所からこの繊維問題を考えてみようと…

- どんな議論がありましたか。

今井 堀江さんがそこに持ち出されたのは、西ドイツがもうIMFの8条国移行の宣言をしている、イギリスも宣言した、それからフランスも遅れているけれども、間もなくするだろう。アメリカ、カナダの2カ国はすでに8条国になっている。つまり欧州の国々では、次第に為替管理、輪入制限を撤廃しだしたわけで、日本もやがて必ずそういうことにならざるを得ないということでした。それを池田通産大臣(勇人、34年6月~35年7月)にご進講したところ、池田さんは自由化の大勢を読みとるセンスを非常に強く持っておられて、「君、東銀の堀江さんによく相談しろ、あの人が天下の大勢をよく見ているから、大勢に遅れないようにしたまえ」という注意がありました。

- (通産)内部の意見はどうだったんでしょうか。

今井 IMFの意見をのむ必要は絶対ないというかなりの強硬論ですよ。自由化なんかされたら産業政策はメチャクチャになっちゃう、徹底的に反対しろという意見が中心なんです。

  それから貿易自由化問題が資本自由化問題とごっちゃになっていた。資本自由化のほうは、この段階では芽を出していないけれども、とくに自動車などは、業界ではなくて通産省のなかで、自由化すれば外車はどんどん入ってくるし、場合によってはGMとか、とくにフォードあたりが国内へ組立工場をつくるかもしれないと、外資の進出を非常におそれていました。

  [特振法を巡る通産省内外の雰囲気]

- なぜそんなに外資恐怖症なんですかね。

今井 当時、自動車産業はいちばん保守的なように感じましたね。IMFを非常な外圧とみたわけです。池田さんなんかは、「そうはいっても、自由化は世界の大勢だから、もうのまざるを得ない、妥協せざるを得ない」という見解だった。業界の大部分も、しかたがないという考えだった。経団連はその間ずっと連絡をとっていましたけれども、しかたがないという池田さん流の考え方です。

- 総資本というか、財界的な感じですね。個別業界になるとまたぜんぜん別でしょうけれども。

今井 ええ。それで自由化計画が決まり、通産省における貿易自由化反対論も、牙城が落ちるわけです。そこでやがて外資の進出問題も出てきて、産業に対する防波堤がなくなるという危機感、それが特振法の思想に発展していくんです。

  だが、業界はそれほどついてこなかった。むしろ逆に、特振法に反対のほうの立場が多かった。通産省のとくに若手が、貿易自由化が進むことに非常に不安がったことが、特振法発想の動機ですね。

- あの時(自由化を)いちばん脅威と感じたのは、自動車と化学の業界ですね。後に非常に伸びるのはこの2つの業界で、むしろ繊維なんかを追い抜き、逆転していく。ここがまた経済のおもしろさだと思うんですが、どうも重化学工業あたりは非常に危機感がみなぎっていた。

今井 まあ産業構造の変化ですな。その後、強くなるところ(自動車と化学)からほんとうに猛烈な反対を受けた。通産官僚でありながら、自由化を推進するとはなんだ、という論法でしたよ。

- 民族派の方が強いわけですね。むしろ近代経済学者が、小宮隆太郎さん(束大教投)などを中心にして、自由化促進論の論陣を張る。35年くらいから、自由化問題は政治的には大きくクローズアップされていた…けれども、通産省内部は、それと逆の方向が出るという動きでしたね。そうなると通産省内部では、そうとう苦労されましたか。

今井 ええ、それは苦労しましたよ。

- 今井さんとしては、自由化しないことによる政治と行政と経済とのゆがみが間題といった割当制以来の意識が、非常に強かった。

今井 非常に強かったですね。通産省のなかであまりにも自由主義的なことをいうものですから、みんなは閉口したかもしれません。結局、なんといったって経済は競争が主体です。たとえば輸入面で、割当制を実施していれば、競争は必ず制限されます。外車の輪入制限をしておけば、それだけで気楽にマーケットを維持できますから、完全競争とはいえない。そういう面は、当時の私にはどうしても見過ごすことができなかった。

- 当時の今井さんのお考えは、競争を中心にかなり厳しい政策ですね。…特振法が流れたのは、今井さんの次官のときですね。通産省の役人は、貿易、資本の自由化とすすんでいけば、仕事がなくなるんじゃないかという危機感があの特振法を支え、特振法に代わるいくつかの個別立法をやろうという動きを支えていったと思う。ところが、その後どうなってきたか。結果として見ると、今日通産省は、世俗的ないい方をすれば国際派が大勢を占めている。これはもう時代の流れだと思いますね。

今井 当然ですね。

- 今井さんご自身は、特振法についてどうお考えになったんですか。

今井 私は苦しんだね。

- 思想からいけば認めがたい。しかし、通産の若手、中堅が特振法の考え方を支持してきたわけですね。

今井 だけど国会が審議してくれませんでしたよ。ぜんぜん問題として取り上げようとしなかった。

  [自由化が産業を強くするという発想]

- 世上、そのことが今井さん対佐橋さんの対立のようにいわれました。これもやっばり担当している局の立場がかなり強く映し出されていた。今井さんはずっと通商畑ですね。そのこともずいぶん影響しているんじゃないでしょうか。

今井 それはありますよ。重工業局サイドのように頑張ったって、(世界の趨勢からして)なるようにしかならないという見通しが、われわれ(「通商派」)は先に立ちますからね。

- 貿易の自由化を一方に設定することによって、その対策を業界にたてさせようとしたことはありませんか。冷たい風が入りますよといって、業界の引締めをはかり、日本産業の構造変化、近代化を促進させる…

今井 それはありましたね。…その業界自体、あるいはその担当の連中からいわせると、日本の機械工業、自動車工業は、アメリカや西ドイツなんかに比べ10年やそこらの遅れじゃない。ずうっと遅れている。だからそれを自由化した場合、はたしてどうなるかわからんという、業界自身も非常に自信がなかったんでしょうね。

  それに対して、いや、そうじゃない、鉄だってここまで伸びてきたじゃないか、自動車にしろなににしろ、ある程度はやがて伸びるはずだ。むしろ自由化したほうが、産業としても通商政策としてもいい。こっちが自由にすれば、向こうに対しても自由化を求めることができるし、お互いに市場を広くしないといけない。こっちは直接産業担当という責任はなく、通商面の担当ですから、すこし抽象的にいろんなことをいっていたきらいはあります。業界や重工業局の方はやっばりミクロの問題として、また自分たちの間題として真剣に考えます。

  あのころの自動車業界は、外部から見ますと、ほんとうにそんなに自信がないのか、外国の模倣主義的な行き方でいいのかと、ちょっと憤慨させるような熊度をとっていましたよ。ところが、いま世界一になった。日本経済、日本民族の力をかれらはどうみていたんだという気もします。