辻さんの記事にはちょっと誤解があるので、簡単に答えておきます。私の記事は「官僚を巨悪に仕立て上げている」わけではなく、霞ヶ関のアーキテクチャが諸悪の根源だと言っているのです。
以前、儒教的な官僚機構と江戸時代的な政治家が「ブロン」的なミスマッチだと書いたことがありますが、きのう與那覇潤さんと対談して、さらに硬直的な大陸法との三重苦ではないかという話になりました。
梅棹忠夫も指摘したように、日本とイギリスは平和で豊かだったという点でよく似ており、鎌倉時代には貞永式目というコモンローに近い法律ができたので、そのまま日本で法の支配が成立する可能性もあったのですが、結果的には「江戸時代化」の中で普遍的な法というものが成立しないまま、近代になってプロイセンの法体系を輸入した。
これがまずい組み合わせで、ヨーロッパの後進国の中央集権的な行政法を移植したものだから、法律とか権利とかいう概念を知らなかった日本人が超こまかい法律で仕事をすることになり、しかもそれを運用するのが儒教官僚なので、法の支配という概念がない。結果的には、万事いいかげんな世の中と細密で厳格な法律の乖離が大きくなり、法律を文字どおり適用しないで官僚のさじ加減で決まるしくみができてしまった。
それも「法律の建て前と実態は違う」という了解があればまだいいのですが、最近は過剰コンプライアンスがひどくなり、法律に実態を合わせるようになりつつある。個人情報保護法なんて守っている会社は一つもなく、厳格に適用したらすべての企業が違法です。「マイナンバー」も悪夢のような過剰セキュリティで、使い物にならない。
しかも法制局が整合性を異常に重視するので、法律がスパゲティ状にネストする結果、ちょっとした改正にも多くの省庁の合意が必要で、一つの官庁が拒否したら改正できない。そのため関連する役所や政治家を回る非生産的な「廊下トンビ」が官僚の最大の仕事になってしまい、役所の既得権をおかすような改正は通らない。
日本のように平和で同質性の高い社会には、厳格な大陸法よりアバウトなコモンローのほうが適している、というのがShleiferの理論ですが、日本は身に合わない拘束衣を明治時代に着たために、その服に合わせていびつな官僚機構ができ、過剰コンプライアンスと過剰コンセンサスが定着してしまったのです。
この奇妙さは霞ヶ関で仕事をしたことのない人にはわかりにくいと思いますが、今の日本の行き詰まりの一つの原因は、こうした官僚機構のアーキテクチャの欠陥にあります。これを是正することは明治以来の行政法を根底から否定することになり、憲法改正よりむずかしいでしょう。