餃子と東南アジアと起業家人生 - @ogawakazuhiro

昨日の夜、経営パートナーと急ぎの打ち合わせが必要となり、ある餃子専門店でビールと餃子をつつきながらのミーティングをしました。そのときにふと思うところがあったので、このエントリーをしています。

以前、「社会にコミットして生きるために」というエントリーをさせてもらいましたが、今回はその続編のようなものです。

僕の起業家人生は、マレーシアの首都クアラルンプール(以下KL)で始まりました。当初は商社の駐在員として赴任し、その地で会社を辞して自ら事業を興しました。最初に手がけたのはPC通販事業です。ちょうどWindows95登場直後で、在住邦人や日系企業の日本語PCの需要が東南アジアでも急激に大きくなっていたので、ローカルでPCを組み立てて日本語のOSを載せて販売することは、それなりのビジネスになりそうでした。僕はそれをネットと電話だけで販売するモデルでまわすことを考えました。日本人は僕だけ、実際の作業はローカルの華人系マレーシア人に行ってもらう。日本人を増やすとコストが跳ね上がるので、僕が休みなく働けばいい、そう思ったのです。事実、名刺にも広告にも24時間連絡可能!と自分の携帯電話の番号を公開していました。


資金は自己資金と、取引のあった日本企業とシンガポールの華人企業に出資を頂くことでまかなえましたが(このときに支援者の方々にはいつか本当にご恩に報いることが僕の労苦をいとわないモチベーションの基盤です)、当時の東南アジアでワーキングパーミット(つまり就労ビザ)をとったり会社登記をすることはとても大変で、四苦八苦のうえで設立し、オフィスを借りたときには胸に迫る感慨がありました。その後シンガポールと香港にも支店を設立しましたが、最初の苦労がやはり一番骨の折れる作業でした。

PCの通販事業を始めた、と書きましたが、会社設立作業中に一時的に帰国しなければならなかった際に、自分用のノートパソコンは買わざるを得ず(さすがにノートは自作しかねるので)96年当時破竹の勢いで成長を続けていた新興ベンチャーの アキアの製品を買いました。(実は当時はまだMacユーザーではなかったのです)

そのときふと、考えたのは、僕がノートパソコンを欲しいのだから、お客様も欲しいに違いない。よし、アキアと交渉して東南アジア向けのエージェントにしてもらおう、ということでした。思い立ったらすぐに行動しなければ気が済まない僕は、すぐにアキアに電話して飯塚克美社長(当時)に会いにいきました。飯塚社長は米国や仕入れ先である台湾や韓国への出張で不在がちで、僕が帰国中の数日で会うことができたのはラッキーでした。もともと多忙を理由に何度も断られたのですが、通勤途中の電車の中でお会いするだけでもいい、とすがったところ、秘書の方が大受けして、飯塚社長の予定を無理に抑えてくれたのでした。

そして、当時は品川の倉庫地区に近いところにあったアキアに伺ったのは19時くらい。一時間くらい待たされたのちに飯塚社長と側近の幹部数名とともに、近くにあった中華料理屋にて食事がてらの打ち合わせをしました。(ここで餃子とビールがつながりました^^)

僕は自分のバックグラウンドや事業ビジョンなどを熱意込めて説明し、アキア製品をまずはマレーシア、その後は東南アジア全域に売らせてほしい旨を依頼しました。日本語OSだけでなく、将来英語圏にも進出するようであればアジアは任せてもらえないかと頼んだのです。

飯塚社長はしばらく考えていましたが、5つめくらいの餃子を飲み込んだあとで笑顔で「うん、いいなんじゃない?」と隣の幹部社員に向けて言いました。将来の事業伸張の話は置いて、まず在住邦人と日系企業への日本語パソコンの販売に関しては任せるよ、と言ってくれたのです。マーク・ザッカーバーグはInstagram買収を一人で決めてしまったそうですが、規模は遥かに小さいディールとはいえ、「ちょっと検討するから後日返事します」みたいな返事を予想していた僕を、いい意味で裏切ってくださった飯塚社長はベンチャー起業家そのものでした。

その後、先述のように香港とシンガポールにも進出し、事業を広げていきましたが、肝心のアキアが国内で不調に陥り、さらにアジア通貨危機のために日本からの輸出に頼るハードウェアビジネスが成立しなくなったため、アキアとの事業は縮小せざるを得なかったのですが、そのかわり(初代デル日本法人社長でもあった)飯塚社長がデルを紹介してくれ、マレーシアのペナンで日本向けのPCを製造していた彼らから東南アジアでの販売代理権を得ることができました。たまたまゲートウェイ2000というデルのクローン企業もマレーシアのペナンで日本向けの製造をしていたので、デル成約の余勢を駆って交渉し、難なく彼らの製品の取り扱いも開始することができたのです。

このエントリーで僕が言いたいことは、チャンスを得ようと思うのであればなりふり構わず、速度を上げて動かなければならないこと、そしてビジネスはやはり人と人のつながりというシナプスによって成立していく、ということです。餃子を頬張りながら 異国での挑戦を決意した若い起業家に対する支援を決断し、さらに自分たちが苦境に陥っているときにも別の人脈を紹介してくれた飯塚さんには未だに深く感謝しています。事業家としては毀誉褒貶があるようですが、あのときの飯塚さんの「いいんじゃない?」と口にしたときの笑顔は一生忘れ得ない、起業家そのものの顔です。

小川浩