「スマートなテレビ」とはどういうものか?

松本 徹三

「テレビ」という言葉は不思議な言葉だ。「テレビ受像機」と「テレビ放送サービス」の両方を意味するからだ。歴史的に見ると、この二つはワンパッケージで出現したのだから、一つの言葉で二つの意味を持つのも理解できる。しかし、この二つはきちんと分けて考えないと将来を見誤る。

更に言うなら、「テレビ放送サービス」の方も、電波塔から一定の周波数の電波を発信する物理的な能力と、番組を制作して一定の時間軸上で順次送り出していく能力に分けて考えるべきだ。民放連は、「ハード(前者)とソフト(後者)を分離するなどあり得ない」と、長い間息巻いてきているが、これも奇妙奇天烈な話だ。ケーブルテレビ会社やスカパーのような通信衛星(CS)放送会社は、もともと番組供給会社とは別組織である。

先々週のアゴラの記事では、私は「スマートフォン」を中心に日本の情報通信産業の将来についての考えを述べたが、今回は、その時にも少し触れた「スマートテレビ」のことについて、更に突っ込んで考えてみたい。


先週の記事の中で、私は、テレビはスマートになる必要はなく、むしろ「大画面だけが取り柄の、もっとdumb(バカ)な装置」になるべきだという私見を述べたが、これは、私のみならず、多くの人達が実際に考えていることだ。ユーザーの立場になって考えると、当然そういう答になるように思えてならない。

勿論、メーカーのテレビ事業部の開発技術者にすれば、こんな話は彼等の存在意義を全く認めないと言っているのに等しい訳だから、怒り心頭になるだろうが、5月17日付の「スーパーハイビジョンと経営者の責任」と題する山田肇先生のアゴラの記事にも書かれているように、これは技術者が決める問題ではなく、経営者が決める問題だ。

本来、多くの事を最終的に決定する企業のトップは、どんな部門の出身だろうと、技術、営業、財務の全てを俯瞰的に見られる人でなければならないわけだが、どうも日本では、人間を「文科系(業務系)」と「理科系(技術系)」に二分して考える習慣があり、業務系出身のトップは、技術に関連する問題にはあまり深入りしないようにしている傾向があるように思える。しかし、これは相当大きな問題だ。

如何なるプロジェクトであれ、推進の可否を決める最大の要素は「投資対効果」であり、それには、「技術開発のコスト」「その結果として作られた商品の競争力」「ユーザーがその商品にどう反応するか」「その結果として市場規模」といった諸点が見極められねばならない。そうなれば、技術系たると業務系たるとには関係なく、役員同士が口角泡を飛ばして議論するというような事が、本来ならば当然あってもよいと思うのだが、日本の会社ではそういう事はあまりない様だ。技術部門が一旦金をかけて開発してしまえば、営業部門は何が何でもそれを売っていかなければならない。

話が長くなってしまったが、私が言いたいのは至極単純なことで、およそ一般消費者を相手にする機器に関するものであれば、全ての技術開発(要素技術の開発を除く)は、先ず「ユーザーが求めているものは何か?」を問う事から始めなければならないという事だ。技術屋が自社の得意とする技術に固執するのも問題だが、「自社で全てを囲い込みたい」という戦略部門の野望が前面に出るのも、この観点から見れば問題なのだ。

ユーザーは誰も「囲い込まれたい」などとは思っていない。成程、アップルもグーグルも「スマートテレビ」という分野を囲い込みたがっているようなのは事実だが、日本の個々のTVメーカーが同じような事を考えるのは、かなり「場違い」なことのように思える。アップルやグーグルに対抗する為に、「日韓の大手TVメーカーが一致して一つの規格を押す」というのなら、まだ意味は分かるが、それなら、「どこにも囲い込まれないようなオープンな規格にしておく」という方がむしろ現実的だ。

ところで、一口に「ユーザー」といっても千差万別で、ハイテクに興味があり、常に新しいサービスを利用してみたいタイプの人もいれば、慣れ親しんだやり方と違うものには一切関わりたくないという人もいる。(特に中高年層には後者が多い。)一日中テレビの前に座っているような人もいれば、パソコンの前にいる時間の方が長く、テレビなんか殆ど見ないという人もいる。

だから、「スマートなテレビ」というものは、そういった全ての人のニーズに応え、しかも誰にもストレスを感じさせないようなものでなければならない。そうなると、「規格」としては、極めて単純で且つ柔軟、そして何よりもオープンなものでなければならないという事になるのではないだろうか? つまり「囲い込み」の野心の対象になった途端に、その様なテレビは「スマート」とは呼べなくなるという事だ。

テレビの歴史は比較的新しい。NHKが放送を開始し、各電機メーカーが一斉に受像機を売り出したのは、1953年のことだから、今から僅か60年程前のことだ。当時の日本ではテレビはまだ高嶺の花だったから、爆発的な人気を呼んだ力道山のプロレス試合などがあると、「街頭テレビ」の前はたちまち人だかりになり、近所に早々と受像機を買った家があると、ミカンや饅頭を手土産に見せて貰いに行ったものだ。

その後、民間放送が始まると、広告というものの威力をまだ十分には理解していなかった当時の多くの人達は、「え、何でこれが只で見られるの?」と心底驚いた。そのうちに、カラー放送が始まり、当初は笛吹けどなかなか踊らなかった「ハイビジョン」も浸透していった。

その一方で、ビデオ録画が次第に一般的になり、「テレビは、放送会社が作った番組表に関係なく、自分の好きな時間に視る」という、全く新しい視聴パターンが生まれた。また、これと歩調を合わすようにして、ビデオレンタルチェーンも隆盛を極めるようになった。

その後、アメリカの影響で、ケーブルTVや通信衛星(CS)放送による多チャンネル化も進んだが、アメリカと異なり、日本では「NHKプラス民放キー局5社」体制は磐石で、多チャンネル化(ロングテール対応)はさして大きなインパクトを与えることにはならなかった。その理由については、色々な人が色々な事を言っているが、私はむしろ、視聴者の価値観の問題だと考えている。

私はずっと以前にアメリカ人を連れて総務省を訪問し、「日本の放送法の理念」についての説明を聞いたことがあるが、「『放送』の特質は『広くあまねく』情報を伝達する事だ」と言われて、これを英語に翻訳するのに苦労した記憶がある。しかし、NHKや民放キー局の番組編成を見ていると、「出来るだけ多くの人が興味を持ちそうな(最大公約数的な)事を、出来るだけ多くの人に伝える(視聴率で競争する)」のがポイントである事は明らかであり、「成程、これが『広くあまねく』なのだ」と妙に納得した事を憶えている。

この事を私は批判する積りはない。むしろ、「そのカテゴリーに含まれるものに、便宜的に『放送』という名称を与える」というのは、或る意味で意義深いとさえ思う。つまり、「このカテゴリーに属するものは、何時でも何処でも、誰でもが、全てのスクリーン(携帯端末の小さなスクリーンを含む)で見ることが出来るようにせねばならない」という事だ。そして、更に言うなら、「このカテゴリーに属するものなら、単純な一方方向の伝達で良い筈だ」という事でもある。放送法に言う「広くあまねく」というのは、そういう事なのだ。

これに対し、「特定の人達」の「特定の興味」に対応するものは、内容の「多様性」と「双方向性」が鍵だ。

「双方向性」という言葉には二つの意味がある。一つは、「多様性を徹底的に追求していけば、オンデマンドでコンテンツを送信するしかないので、双方向通信の出来るネットワークが必要だ」という意味であり、もう一つは、「視聴者の興味が細分化されていくと、同じような興味を共有する人達の間で、比較的小規模のコミュニティーを形成する事が可能になり、そのコミュニティーの中での双方向コミュニケーションが求められる事になる」という意味だ。そして、この事を突き詰めて考えていくと、このカテゴリーのメディアとしては、通常の「多チャンネル放送」よりは「ネット」の方が向いているという事になる。

一方、日本語で「放送」というと、前述の総務省の説明に基づく「放送」を意味することが多いが、英語でBroadcastと言えば、通常は、単純に「1対N」の通信を意味する。従って、ネット上での配信でも、当然Broadcastはあり得る。バースト型ではなく、ストリーム方のリアルタイム配信になれば、同じコンテンツを視聴したいと思うユーザーが多い場合は、経済的な観点からも、当然Broadcastを使うことが多くなるだろう。

さて、話を将来の「スマートなテレビ(受像機)」のあり方に戻そう。ユーザーが「テレビ」に求める3原則は、

1)何時でも何処でも見られる。
2)画像が美しい。
3)色々なサービスに対応している。

の三つだろう。

1)については、何処にでも置いておきたいのだから、場所をとらず、価格も安い事が必要だ。そして、価格を安くしようと思えば、一番良いのは、唯のdumbなディスプレーにしておく事だ。どの部屋にもテレビのコンセントがあるとは限らないから、どこかにある受信機やセットトップボックスのようなものから、WiFiで映像を転送するのが一番合理的だろう。

WiFiは既に極めて低価格で、且つ、色々な用途の為に使えるから、「どんな家庭にもWiFiがある」という状況を実現するのは比較的容易だろう。現在のWiFiはキャパシティー的に少し心配があるが、これから出てくる802.11ac(5GHz)規格に対応するものなら、少なくともこれから10年位の間は何の心配もない.

2)については、特に何も言う事はない。放っておいても受像機メーカーが必死になって開発するだろうからだ。私は、4Kや8K(スーパーハイビジョン)の受像機はあっても良いと思っている。しかし、「広くあまねく」の「放送サービス」をこれに合わせる必要は、ここ当分は全くないといってよいだろう。

このようなディスプレイは、あくまで、金に糸目をつけない人達に、特別な目的の為に作られたコンテンツを見る為に買ってもらう事を目標にすべきだ。そうなると、「解像度」だけでなく、「画面サイズ」も更に大きくしてほしいという要求も出てくるだろう。

3)については、全ての放送サービス(地上波、衛星、ケーブル)と、あらゆるインターネットサービス(ダウンロード型、ストリーミング型)に対応する事が必要だ。それと同時に、ユーザーの手によって色々な方法で蓄積されている画像・映像も、何時でもすぐに取り出して、この画面上で見られる様にしておくべきだ。

しかし、受像機の中にこういった全ての機能を入れようとすれば、スペースもとるし、金もかかる。それ以上に、「新しいサービスが出てくる度に新しい受像機を買わねばならない」ということになれば、ユーザーはたまったものではない。だから、受像機はあくまでdumbにして、こういう機能については個々のデバイスに任せるのが正解だ。ユーザーは、自分に必要なものだけ買って(或いはサービス会社から供給を受けて)、それを家中に置かれた各受像機にWiFiで繋ぎ込むだけで済むからだ。

さて、最後に「リモコン」と「双方向性」の問題を解決せねばならないが、これはついては、二つひっくるめて「全てをスマートフォンに委ねる」のが一番だ。

現在のリモコンは既にボタンの数が多すぎ、お年寄りなどにはとても使いづらい。デバイスの数が増えると、更に複雑なものになるだろうし、インターネットに対応にすると、更に使いづらくなるだろう。

ところが、「テレビを見ている人の殆どは、視聴中にも常にスマートフォンを手許に持っているのが普通」と想定すれば、これをリモコン代わりに使うことによって、この問題は一気に解決する。スマートフォンなら、ユーザーの性格や個々の状況によって、タッチ画面には必要なキーしか表示されないように出来るし、全ての表示を大きく見易いものにする事も出来る。必要に応じQWERTYやアイウエオのキーボードも出てくるから、インターネットサービスへのアクセスも楽に出来る。

現在のテレビに何とかして双方向性を持たせられないかと、放送会社の中でも色々研究している人達がいることは知っているが、これは全く無駄なことだ。既に存在しているスマートフォンのシステムに全てを委ねれば、多くのことが至極簡単に出来るからだ。

スマートフォンをリモコン代わりに使った瞬間から、そのスマートフォンはテレビ画面と自動的にsyncしていることになるので、この画面に関係する上り回線への発信を、ユーザーはいつでもワンタッチで行うことが出来る事になる。これを使えば、放送会社も、色々な新しい双方向サービスを、何時でも簡単に作り出すことが出来る。例えば、番組の中に、視聴者がすぐにでも買いたくなるような商品をあらかじめ組み込んでおき、スマートフォンにアラート信号を送って注意を喚起する事により、ネットショッピングへと誘導するというような芸当も、やがては出来る事になるだろう。放送会社は、これでコマーシャル収入の減少を補える。

一番重要なのは、既にあるものを極力使う事、「何でも自分で作り出してやろう」などとは思わない事だ。日本では「自分が使うものは自分で作るべきだ」とする、奇妙な価値観が一部に存在するから、この事は常に自戒しておく必要がある。技術屋さんが自分で作りたいと言っても、経営者は「投資対効果」を慎重に計算して、思い留まらせなければならない。