きのうの国会事故調による菅直人氏の参考人質問は、責任逃れと問題のすり替えに終始するひどいものだったが、本人はまったくそう感じていないようだ。彼はブログで、自分の発言を誇らしげに引用している。
ゴルバチョフソ連首相は、「チェルノブイリ事故は我が国体制全体の病根を照らし出した」と回想録で述べています。福島原発事故についても同じことが言えます。戦前、「軍部」が政治の実権を掌握した過程と類似。東電と電事連を中心に、原子力行政の実権を次第に掌握。批判的な専門家や政治家、官僚は「ムラ」の掟によって村八分にされ、主流から外されてきた。それを見ていた、多くの関係者は「自己保身」と「事なかれ主義」に陥っていた。私自身の反省を込めて言う。
菅氏は、自分がどういう立場にいたと思っているのか。彼は首相が自衛隊の最高指揮官であることも知らなかったらしいが、今回の事故処理の最高指揮官は首相である。彼は東條英機なのだ。これは東京裁判で、東條が「今度の戦争はわが国の軍部ムラの病根を照らし出した」と言うようなものである。
特に救いがたいのは、今回の事故の責任を「原子力ムラ」に転嫁し、それを「解体」することが改革だと信じていることだ。どこの業界にも業界団体はある。問題はその存在ではなく、それによって一般国民がどういう損害をこうむったかである。ところが菅氏の話には、福島第一原発事故の原因が何で、その再発を防ぐにはどうすればいいかという話がまったくなく、ひたすら「原子力ムラ」の官民癒着を指弾するだけだ。
このように結果を考えないで動機の純粋性を基準にして行動を決める日本人の特徴が、かつての戦争を初めとする多くの失敗をまねいてきた。いま必要なのは、日本のエネルギー供給の長期計画をどう考え、電力自由化をどうするか、その中で原子力のリスクをどう評価するか、といった目標設定と、それにもとづく制度設計である。それなしに「原発を何%にするか」とか「原子力ムラをどうするか」などという手段の議論は意味がない。
東條のように「空気」に同化して結果を考えない指揮官を生んだのは、こうした日本人の平和ボケの伝統である。彼は固有名詞ではなく、日本社会に今も遍在する普通名詞なのだ。そして「脱原発」という科学的根拠のない「空気」が日本を取り巻く今、「東條」が軍部を批判するのは趣味の悪いブラックジョークというしかない。