日本人論というオリエンタリズム - 『(日本人)』

池田 信夫

(日本人)
著者:橘 玲
販売元:幻冬舎
(2012-05-11)
販売元:Amazon.co.jp
★★☆☆☆


日本人論は、かつて日本が世界の驚異だったころ、たくさん出たが、このごろはすっかり下火になった。それは一つには日本が世界から注目を集めなくなったこともあろうし、もう一つは――アゴラ読書塾で読んでみてわかったが――そのほとんどが日本人は「集団主義」で「空気」で動くといったステレオタイプで、新鮮さがなくなったことだろう。

こうした従来の日本人論の欠陥は、西洋人を人類のスタンダードと考え、個人主義や合理主義といった価値に疑問をもたないで、日本人にそれが欠けているからよくないとか、逆に個人を犠牲にする集団主義が日本的経営の強みなのだ、といったオリエンタリズム(西洋中心主義)にある。

本書はそれに異を唱え、日本人は「合理主義」だという。いろいろなエピソードが雑然と列挙されていて論旨がわかりにくいが、繰り返し参照されるのは、彼のブログ記事に引用されているイングルハートの図で、本書の論旨もこれに依拠している。

しかしこのように価値観を「世俗的=合理的」か「宗教的=伝統的」かという対立軸で分類するのは典型的なオリエンタリズムである。島田裕巳氏も指摘するように、日本人が「無宗教」だというのはナンセンスだ。どこの社会にも信仰はあり、それが教義や教会などの組織をもつかどうかは本質的ではない。

日本人が世俗的に見えるのは、共同体を超えて人々を精神的に統合する必要がなかったからで、共同体の中の「空気」の求心力は強い。それを信仰と呼ばないのは、日本に「聖と俗」という対立軸がないからだ。それはキリスト教に固有の分類にすぎないので、そこから遠い日本人が世俗的にみえるのは当たり前だ。聖が非合理的で、俗が合理的というわけでもない。合理主義的な近代科学も資本主義も、キリスト教から生まれたのだ。

日本人はキリスト教的な「宗教」をもっていないが、山本七平が「日本教」と呼んだ伝統的な価値観は今も強く人々を拘束している。それは「暗黙知」として受け継がれてきたので、意識化することがむずかしく、日本の行き詰まりの原因になっている。「超越的価値を信じない日本人は合理主義で進歩的だ」という本書の議論は、バブル期にも流行した夜郎自大のオリエンタリズムである。