「本当に必要なこと」が課金可能になるような風潮転換が必要だ。

倉本 圭造

グローバリズムの中で「日本ならではの良さを一貫して発揮するためには?」という趣旨の発言をすると「改革否定派の反動勢力」的な扱いになってしまいがちで、そういう本を出した直後にマッキンゼーの卒業生MLで宣伝した時もそういう反応が多かった。

でも「改革をやりきるためにこそそういう視点が必要」と説明するとわかってくれることが多かった。

今の風潮の行き過ぎをカウンターするための、物凄く原則論的なアンチグローバリズムを主張する論客さんがいるのは必要なことだと思う。でも、彼らと同じぐらい、「グローバリズムへの実践的対応」を仕事としてやってる人の中にも、この「ならではの価値の一貫的追求」の必要性は痛感されてると思う。

この記事など、いくつかはブログでも紹介させてもらったが、むしろ、「グローバリズム最前線」で活躍している人の中に、こっちが驚くほど熱い反応を返してくれた人も多かった。国内だけで生きているより海外と関わると危機感を持ちやすいってのもあると思うし。

ただ、そういう「ならではの価値への必要性を痛感」しているグローバリストの方も、実際に彼らの日々の仕事の作り方となると、ある程度「なんでアメリカみたいにできないの?」トーンの仕事の取り方にならざるを得ない状況がある。自分たちの本当の問題にマッシグラに取り組みづらい分断がある。


今の日本は、

「閉じた世界の中で自分たちの良さを存分に発揮できてはいるが、グローバルな状況と噛み合っていないので数字的に鳴かず飛ばずになる」

か、

「かなり無理してグローバリズムに対応しようとしているが、日本人の集団の一番オイシイ部分を活かすためのプロトコルに無配慮なために、”湧き上がる生命力”というような成果は得られていない」

という、両極端な状況にあることが多い・・・・と、私は経営コンサルタントとしての経験の中で、どうしても感じていた。

それを超える可能性というのは、やはり、「日本人の集団の圧力」を解体してやりたいというリバタリアン的志向の場所よりは、案外ずっと昔ながらの密度感の延長で、しっかり実質的な判断力を保持している集団から生まれていることが多い。

そういう時にやはり日本の旧来の大企業の自明的存在感っていうのは凄く大事な共有財産になる。その「空気」ベースにうまく動かしていけば、「ならではの価値」を「グローバリズム」とつなげていくことが時に可能だから。その可能性をちゃんと評価しないと、ただ「ぶっ壊す!」というだけでは進まない。

ただ、そういう「伝統的な良い空気」はそのうち崩壊していくだろうから、今度はその「良好な連携」を「意識的に取り戻す算段」をみんなで考えなくてはいけない時代になっている。

だから、最終的にはリバタリアン的な「個人」の集まりに日本は解体されていくのだろう。しかし、その「解体された個人たち」がよく出来たサッカーチームのように連動できない限りは、ただ「バラバラにすれば幸せ」というわけにはいかない。

我々は、「古い共同体を破壊する」ためにこそ、「共同体を破壊した世界での新しい連携」の文化を培っていかないといけない。崩壊させながら新しい地平にソフトランディングさせなければ。

日本の「個人プレイヤー」と「大企業」はもっとクリエイティブな協業が可能だと思う。昔は組織の中で「変人だけどまあ面白いよね」的に調和して存在してた「日本人の中の奇人」が、ここ20年の風潮の中で軒並み「大組織」の外側にはじき出された(はじき出た)結果、バランスが崩れてるところがある。

ソニーだろうと霞が関だろうと、昔は「変人」でもそういうとこにしか居場所がなかったので、「組織の中で変人を有機的に活かす」流れに結果としてなっていた。「日本の組織」と「変人」との高度な連携が、エッジが立った方向性と密度感の両方を実現させてたところがあると思う。

しかし今は「組織」からは「変人」がはじき出されがちなので、「組織」のなかには「密度感はあるがエッジが立たない」という状況になってしまうことが多い。「変人」は社会の中で「個人」あるいは「小さい組織」で色々やっているが、それと「日本社会の密度感」がうまく噛みあってない。

昔は同じ組織の中で長い時間かけて「変人と組織人」の連携が生み出されていたわけだが、今は何らかの組織の壁を超えて「契約関係」として連携しなくちゃいけなくなっているので、それが理想的にいくために必要な「意識化された風潮の密度」は格段にあがっている。

その両者を繋ぐ適切な「ど真ん中の風潮」がなければ、「変人・個人」側としては「日本の組織」から受注するために、本来必要なレベル以上に「なんでアメリカみたいにできないの?アホじゃないの?」っていうトーンでガシガシ抑圧的な営業をかけざるを得ない。

そういう抑圧的なリーダーシップの形しか取れない時に、「自分たちにしかできない生命力溢れる可能性」が生まれることはありえない。そこをなんとかしないといけない。

そこが分断されたままだと、必死に「こういうことが今の時代必要」という像を追いかけまくってるんだけどイマイチ成果があがらない・・・・どころか、それを超える「自分たち独自のオリジナルな試行錯誤」をよってたかって抑圧する・・・ような方向に進んでしまいがちだ。

しかしその「風潮」の問題を乗り越えさえすれば、日本の色々なすれ違いがあらゆるレベルでうまく噛み合うようになり、今までの混乱が嘘のようにスムーズに回り始める確信が、自分にはある。

なんとかそういう方向に、「風潮」を動かしていきたいと思う。

今の日本の「混乱」は、過去の色んな対立を超えた新しい連携関係へ「移行せざるを得ない」状況に追い込まれているという意味で日本にとってのチャンスだ。

焦らず冷静に、表に現れる対立に惑わされずに、そちらへ動かしていきたい。

以上のコラムは、6月19日のツイッター投稿を再構成したものです。最近ツイッターをはじめました。もしよろしければフォローお願いします。

倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」
@keizokuramoto