正しい決定と現実の決定 - 『意思決定理論入門』

池田 信夫
意思決定理論入門
イツァーク・ギルボア
NTT出版
2012-06-29

★★★★★

「決められない政治」が問題になる日本で、意思決定は企業にとっても切実な問題だ。正しい答はわかっていることも多いが、実際に正しい決定ができるかどうかは別問題である。本書はこの分野の第一人者が意思決定をやさしく解説した入門書で、「おもしろ行動経済学」みたいな本を何冊も読むより、本書をちゃんと読んだほうがよい。

「人間は合理的じゃないから経済学は非現実的だ」という類の批判はいやというほど聞かされるが、それに代わる現実的な理論を提示した人はほとんどいない。その数少ない例外がカーネマンのプロスペクト理論だが、本書はこうした新しい意思決定理論のユニークな入門書である。数式はほとんどなく、身近な意思決定を題材にした例題がたくさんあって読みやすいが、テーマは著者の研究書と同じく、メカニカルな合理主義に代わる現実的な意思決定理論を構築しようということだ。

その出発点は、プロスペクト理論で実験的にも証明された参照点の概念である。人間は外界の刺激を受けたとき、その絶対値をみて効用を最大化するのではなく、初期値からプラスかマイナスかに反応する。サイモンの限定合理性(bounded rationality)も、正確に訳せば「制約された合理性」であり、この制約条件となるのが参照点である。

そして人間はこの参照点となる現状(status quo)を維持するバイアスをもち、プラスの利益よりもマイナスの損失に強く反応する。こうした特徴は、おそらく進化の過程で、敵の襲撃に備えるために身につけた習性だろう。動物が動く対象にだけ注意を向けるのと同じである。人間も含めて、動物はつねに生命の危険にさらされて生きてきたので、得ることより失うことへの関心が強いのだ。

こうした保守的なバイアスは、不確実な未来に対処するとき、さらにはっきりする。標準的な意思決定論の想定している期待効用理論は、現実の人間の行動を説明する役には立たない。人はベイズの定理のような機械的なアルゴリズムで決定してはいないからだ。ラムズフェルドの分類でいえば、出来事には事実(known known)とリスク(known unknown)と不確実性(unknown unknown)がある。人々は不確実性よりもリスクを、リスクよりも事実を求め、利益が小さくても確実なものを選ぶ。

つまり人間は、すべての出来事を客観的に比較して意識的に選択するのではなく、何もないかぎり習慣的に行動し、不利な変化が起きたとき受動的に反応するのだ。これは幸福度を考える場合も重要である。日本人の幸福度を絶対的な所得で計測すればジンバブエよりはるかに高いが、日本の自殺率はジンバブエの3倍である。豊かでストレスの多い社会より、貧しくても安定した社会のほうが幸福なのだとすれば、人々にそういう多様な選択を与えるのが成熟した国なのかもしれない。