他人のことは、何一つわからない。そこからスタートしたい。
他人が何を好み、何を嫌い、何を幸せと捉えるか? どうやらこんな問いについては、“唯一の答え”を出すのが不可能らしい。逆に、そんな答えを知ってる人がいれば教えてほしいものだが、永遠に不確定のままで終わる可能性が高そうだ。
だから、「各自、勝手にやってくれ」としか言えず、原則すべてが自由であるということを(暫定的に)結論付けて構わない、と考える。
ここで“自由”という語を、「何も決まっていない・命令もルールも何もない」という程度の意味で使いたい。つまり、「思い通りにできること」という意味は含まない。
ところで、各自が自由に生きていると、どうしても他人とぶつかることがある。そこで、その衝突を調整・解決するために、一定のルールが必要となる。調整・解決の必要性や合理性があってはじめてルールをつくることができる。
これはすなわち、原則=自由、例外=ルール、と表せる。
これを前提にすれば、必要でもないし役にも立たないルールがあれば、変えてしまって構わないことになる。なぜなら、もともとが自由なのだから。
こうして、「すべてのルールはいつでも改変可能である」という前提を導くことができる、と私は考える。
誤解して頂きたくないが、私はルールや法律等を軽視しているわけではない。そうではなく、ルールは例外的な一種のツールだということを再確認したいのである。
ルールを守るために人が生きているのではない。人が生きるためにルールを守る。
ルール中心ではない。いつでも人が中心である。
ルールは、人に「こう生きるべきだ」と示すことはない。むしろ示してはいけない。ルールに出来ることは、他人との共生のインフラとなることだけだ。
つまり、他人との関係があってはじめてルールが必要になる。さらに付け加えれば、例えば私(あなた)自身の信念・価値観・考え方や生き方といった内面に関わることについては当然、私(あなた)自身の問題だが、一方で、私(あなた)と他人との関係はルールによって決められる問題だということを明確にしておきたい。
もう一つ申し上げたいのは、私たちは必ず他人に頼って生きているということだ。完全に自給自足するならともかく、私たちは他人との(濃淡ある)かかわりを避けられず、よって何らかのルールが必要になる。
こうしてみると、私たちが生きる上で「ある難題」がどうしても生じる。
すなわち、「私はこう生きたい」等の価値観は往々にして他人と一致しない。さらに、社会のルールや仕組みに対して、「自分の信念に反する!」などと反発を覚える人たちが少なからず現れてしまう。このような場合に、私たちはどう共生するかという難題である。
この難題は、例えば「原発問題」をイメージすれば簡単に理解できる。
3.11以降、原発に関して「圧倒的な多数派」なる勢力は存在しなくなった。昨今の原発再稼働問題に関しても、主に政財界を中心とする肯定派に対して「再稼働反対!!」と叫ぶ一連のデモ参加者の姿などをみれば、今後、社会的な混乱はさらに悪化の一途をたどるのではないか。その混乱の原因の一つは、「自分が正しいと思う信念が、他人や社会に受け入れられない! 何でわかってくれないんだ!?」という大きな不満にある。
こうみると、個人と他人(そして社会)との関係がかつてなく悪化しているとわかる。そしてそれは、他人との関係を調整するルール・仕組みに不信の目が向けられているからこそだ。
このように、ルールの正当性そのものが揺らぎつつある現状からは、「もはや誰もが賛同するような真理などあり得ない」との意識が伺える。
そこで、次のような提案をしたい。
真理など見つからない、と考えるならば、私たちは、そんな真理に頼らなくとも他人と共生できるような「知恵」を身につけるべきだ。これこそ今、最も求められることである。
今、私たちに必要なのは、誰もが正しいと思う真理を探すことではない。
どのようにして、私たちが自分の信念・価値観を他人や社会に上手く伝え、説得を試みるか。
どのようにして、他人に心からの自発的な共感や合意をしてもらうか。
ひいては、どのようにして全体の合意へと結び付けるか。
「個人から社会全体へ」とつなげるために、私たちにとって必要なのは新たな合意プロセスである。そして同じく必要なのは、そんなプロセスを支えるような今までにないルール、もしくは既存のものをより強化したルールである。
だから、「正しいのは私の考えだ!」といった叫び合いの中には絶望しかない。
「私の考えはこうです。あなたはどう思いますか?」
「あなたと私の考えが違うのは仕方ない。では、その良い点・悪い点を比べてみませんか?」
「私とあの人との意見はそれぞれこうですが、皆さんはどう思いますか?」
一例だが、こうして繰り返される問いかけの先にこそ、希望があるはずである。
香月 健太郎