問題なのは、われわれが無知であることではなく、間違った知識を持っているということなのである。
アーテマス・ウォード[米国独立戦争時の将軍]
前回は電力問題を人体に例えて国内の課題を考察した。今回は衆院選も近づく中、原発問題の背後に根深く存在する放射能に対する人々の心理面に絞り考察する。
現在、原発否定派は原発の潜在的な危険性や放射能の恐怖を訴え、一方の原発肯定派は原発の基幹電源としての必要性や低線量被曝の安全性を主張しているが、両者の間には埋めがたい溝がある。原発否定派の心に根付いた不安や不信は容易には払拭されず、一旦思い込んだ信念や主義主張から人は簡単には脱却できない。放射能への不安の根底には人間としての感情と論理の葛藤がある。これを正面から直視しない限り原発問題の根本的な解決は困難である。
人間は複雑で多様な側面を持ち論理的に判断もするが決して合理的な存在ではない。脳は進化の過程で大脳辺縁系の旧脳と、その上に構築された大脳皮質系の新脳から構成される。旧脳は動機や記憶に関係し、怒りや恐怖の原初的な感情を生む。危険な状況も一瞬で把握して退避する本能も発揮する。
一方、新脳は知覚や認知に関係し、喜びや悲しみの高度な感情を生む。事実を分析して間違った思考や推論を正すこともできる。新脳はさらに言語・思考・計算等の論理的機能を司る左脳と、イメージ・五感・直感等の感性を司る右脳から成る。脳は膨大な情報を処理するため不要な情報を取り除いて変化を抽出し、重要な情報をまとめて単純化する。この優れた仕組みの弊害として人は無いものを見出し、誤信や迷信に陥り、因果関係を取り違え、ランダム現象に規則性を読み取り、願望から事実を歪めて解釈するミスを頻繁に犯す。
原発問題に戻って考える。重要なことは現在の状況を単に意見の異なる個人や集団の対立として捉えるのではなく、同じ人間同士における『脳内機能の問題』として一般化して分析することである。脳の構造に照らして言えば、それは旧脳と新脳の対立であり右脳と左脳の不協和である。ひとりの人間においても意識の水面下では感情と論理は対立し、優勢な方が個人の発言や行動として現れるのだ。
左脳に位置する原発肯定派の論理は旧脳に根付く原初的な恐怖と右脳を支配する感性を相手に戦っている。原発否定派のリーダに感性を商売にする人々が多いのもうなづける。それでは対立を解消して両者が理解しあう道はないのだろうか? その糸口として既にご存知の方も多いと思うが、認知心理学の立場から示唆に富む一冊の本を紹介したい。冒頭の言葉もこの本からの引用である。今後この分野の専門家から問題解決に向けた積極的な発言や提言を大いに期待したい。
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』T.ギロビッチ/守一雄、守秀子訳(新曜社、1993年)
「はじめに」より抜粋。
誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることにもなる。誤った考えを許容し続けることは、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか? 世の中のものごとについて正しく考えることができることは、貴重で困難なことであり、注意深く育てていかなければならないものなのである。私たちの鋭い知性を、いたずらに正しく働かせたり働かせなかったりしていると、知性そのものを失くしてしまう恐れがあり、世の中を正しく見る能力を失くしてしまう危険がある。さらには、ものごとを批判的にみる能力をしっかり育てておかないと、善意にもとづくとは限らない多くの議論や警告にまったく無抵抗の状態になってしまう。S・J・グールドは、「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」と述べている。個人個人が、そして社会全体が、迷信や誤信を排除するよう努めるべきである。そして、世の中をより正しく見つめる「心の習慣」を育てるべく努力すべきであると私は考える。
生体には化学物質や放射線等の環境因子に対する強力な自己修復機能が進化の過程で備わっている。人体に無害で蓄積しない低線量被曝の影響を心配する人々は、明治初期に電話でコレラが伝染すると恐れた当時の人々を笑うことはできない。
政府は現代の迷信であるLNT仮説の見直しに向けて専門家集団による国際的な活動を率先して行なうべきである。同時に放射能汚染による悲惨な避難生活の早期解消や、無意味な広域の除染計画を早急に見直すべきである。今度の選挙では原発や放射能の不安を煽り人心を操作しようとする政党やマスコミに対し、誤信や迷信から脱却しようとする人々の真の知性と理性が試されるのだ。
今泉 武男
電機メーカー