解散・総選挙が近づいて、各党の動きがあわただしくなってきた。自民党は谷垣総裁が早々と有力候補から脱落し、安倍(石破)vs石原という闘いらしい。民主党は野田続投の流れに対抗して細野を擁立する動きが・・・などと書いても、政策の話はほとんど出てこない。日本の政治は丸山眞男が60年以上前に指摘した通り、「政治的精神が『顔』とか『腹』とかいう政治的肉体への直接的依存を脱しない」からだ(「肉体文学から肉体政治まで」)。
この原因を彼は、日本では民主主義がフィクションだということが理解されていないからだとする。近代社会の本質は「人間の知性的な製作活動に、従ってまたその結果としての製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度」にある。これに対して「中世のように人間が出生や身分によって位階的に位置づけられ、社会関係が固定しているところじゃ、そういう人間の社会的環境がちょうど山や海や星と同じような自然的実在性を帯びて人間を囲繞している」。
[前近代]において尊重される「人間」とは実は最初から関係を含んだ人間、その人間の具体的環境ぐるみに考えられた人間なんだ。[・・・]ここで真実の支配者なのは君主でも領主でも家長でもなく、実は伝統なんだ。そこでは人間と人間が恰もなんらの規範をも媒介としないで、なんらの面倒なルールや組織をも媒介としないで「直接」に水いらずのつきあいをしているように見える。実は抑圧と暴力が伝統化されているために意識されないだけのことなのだが・・・。(強調は原文)
近代社会ではこうした属人的な関係が役に立たなくなるので、それを非人格的な法の支配に置き換える必要が出てくる。したがって
人間相互の直接的感性的関係がますます媒介された関係に転化するという面を捉えれば、近代化というのは人格関係の非人格化の過程ともいえるが、他方因習から目ざめてそうしたルールなり組織なりを工夫してつくって行く主体として己れを自覚する面から見れば、それは逆に非人格関係の人格化ということになるわけだ。
これは彼が若いころ読んだヘーゲルの影響だと思われるが、この意味で法というフィクションを信じる近代的な主体をつくることが丸山の理想だった。そのために必要なのは「一旦つくられたフィクションを絶対化することなく、その自己目的化を絶えず防止し、之を相対化すること」である。
しかし日本人の行動様式はこのような意味でのフィクションを信じる意識とは対極にあり、「ボス・大御所・親分・顔役などの行使する隠然たる強制力に至るまで直接的な人間関係を地盤とする問題処理」を行なう。それを丸山は日本人の「前近代性」と考え、それを克服することを終生のテーマとしたのだが、最近の政局をみると状況は60年前と何も変わっていないようにみえる。
フクヤマも指摘するように、制度を彼岸的なフィクションとして維持する態度は自然には出てこないもので、キリスト教の生み出した特殊西洋的な行動様式だろう。アメリカ大統領選挙では「強姦による妊娠にも中絶を認めるか」というくだらない問題が、キリスト教の倫理とからんで争点になっている。よくも悪くも、デモクラシーの「本場」では、政治理念が何より重要なのだ。
丸山もこうした態度の起源を「ドゥンス・スコートゥスやウィリアム・オッカムなどの後期スコラ哲学」に求めているが、これは最近の研究でも確認されている。政党政治を支えるのが13世紀以来のキリスト教の伝統だとすれば、それとは無縁な日本人が政治理念を中心とする自発的結社をつくることができないのは何の不思議もない。
維新の会にもTPP反対論者が入ったりして、早くも「肉体政治」化が始まっている。これは政策ではなく政局で群がる東洋的人治主義から新しい政治システムが生まれるかどうかという――ほとんど見込みのない――実験なのかもしれない。