橋下大阪市長が新党を立ち上げ、党首に座ることになったニュースはある意味、日本にそこまで政治が出来る人が欠如しているのかという残念な気持ちにもなりました。当の本人は大阪市長に留まったままで党首となる見込みですから奇妙な感じがしないでもありません。
橋下市長は時の人である面も大きく、過信しすぎてもいけませんが、大阪府知事、市長時代を通じて大阪を変えてきたという意味では私は大きく評価しています。大阪が何故あそこまで堕落していたのか、その原因にも興味ありますが、そこに討って出た橋下氏とその改革に対する成果は目を見張るものがあります。
ところで橋下市長と小泉元総理大臣にある共通点を見出しています。
それは優しさを断ち切れる厳しさではないかと思います。政治家は往々にして票集めの為、地元の声を聞き、冠婚葬祭に明け暮れ、悪く言えば地元の御用聞き状態であります。結果として国政に対しても地元の声を反映することが自分の保身につながり、結果として大所高所から見た日本を治めることが出来なくなっています。
その中で橋下氏にしろ、小泉氏にしろ、日本国のメリットは何かという大きな観点に立ち、誰にでも優しい行政、政治ではなく敵を作る政治を推し進めたということかと思います。それはたくさんの国民が思っていても言えなかったことを代弁し、強い行動力で推し進めたことに意味があります。そういう意味では野田首相も入るのかもしれません。
日本には「甘え」という世界でも翻訳不可能な言葉があります。それを説いたのが土居健郎氏が1971年に著した「甘えの構造」で私が学生の頃、必読の本と言われた代表的な日本人論の本です。
甘えという日本の特徴の一つとして私は「国に甘える」という姿勢も大いにあったと考えています。それは昨日、今日に始まったわけではなく例えば鎌倉時代にさえも天皇に仕える人々(民)が主従関係を通じて甘えがあったと認識しています。それは国と国民の持ちつ持たれつの中で自称弱者とするものが増やす原因のひとつでありそれに対して甘えさせた国の仕組みも脈々と続くわけです。
以前、補助金行政という事をこのブログで書かせていただいたと思いますが、これも一種の甘えであり、日本が産業育成の為に本当に必要としている補助金とそれを既成事実として延々と甘える業界の悪癖は絶たれることはないのです。
これら甘えは自立している人からは実に苦々しい思いを感じているのですが、今まで政治家をふくめ十分な対処を施すことはなかったことが橋下市長の人気の裏に隠れたファクトではないかという気がいたします。橋下市長の「維新八策」は日経新聞の社説や春秋辺りでは詰めが甘いとかなり厳しく書かれています。一方で国民からの期待は高いとあれば、ここはポピュラリズムに乗らず、時間をかけて足場を築きあげてもらいたいと思います。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年9月12日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。