中国と日本のカントリーリスク

池田 信夫

今回の暴動で、中国のカントリーリスクがあらためて認識された。その最大の問題点は、政治の予測可能性が低いことだ。シンガポールのように警察の取り締まりがきびしいなりに一貫性があれば、企業も対応のしようがあるが、中国では共産党指導部の意向で法律は何とでも運用される。中国外務省の副報道局長が記者会見で「暴動の責任は日本が負うべきだ」と述べたのも、日本人の財産権は保護しないということだろう。


近代社会で財産権が絶対的に保護される理由は、この予測可能性(時間整合性)にある。時間を通じて行なわれる投資や借り入れなどの経済行動では、その前提となる法令や契約の遵守が保証されないと、将来のリスクを恐れて過少投資が起こる。法の支配によって国家から個人を守るバリケードを築き、蓄積した資本を国家が略奪しないことを保証したのが、西洋近代で爆発的な成長の起こった一つの原因だった。

この点では、菅首相の「お願い」で法的根拠なく原発が停止される日本も中国と変わらない。シティグループが日本の消費者金融から撤退するとき言ったのも、返済した借金の金利を過去に遡及して減免し、「過払い金」を返還させるようなルールのない国でビジネスはできないということだった。これが日本のカントリーリスクである。

政治家が法を踏み超える「人治国家」という点で、日本と中国はよく似ている。それは事後的には好ましいように見えることが多い。菅氏が原発を止めたときも、メディアは「大英断」として拍手を送った。しかしその結果、定期検査の終わった原発も動かせなくなり、LNGの輸入増で日本経済は大きなダメージを受けた。行政の裁量で電力会社を倒産に追い込む日本が、中国の暴動を笑うことはできない。

最近の反原発をめぐる感情論の暴走も、中国と大して変わらない。法的根拠のない「年間1mSv」という過剰コンプライアンスが16万人を故郷から追い出し、賠償や除染で10兆円以上の税金を浪費することを考えると、実害は中国の暴動よりずっと大きい。特に暗澹たる気分になるのは、曲がりなりにも先進国になったはずの日本で白昼公然と法の支配が蹂躙されていることだ。

日本はこうした近代国家のエートスを身につけないまま、欧米へのキャッチアップで経済発展をなしとげた。それは日本人の高い能力による成功のように見えたが、実は中国もまねることのできる「なんちゃって近代化」にすぎなかった。その報いとしてわれわれが得たのが、大衆迎合をデモクラシーと取り違える「民主」党と、水戸黄門的な裁量行政をみずからの業績として誇る愚かな政治家だ。

そしてこれからも日本は、何のメリットもない原発停止で毎年3兆円を浪費し、GDPを1%近く失い続ける。今のまま放置すると、その結果はゆるやかな衰退ではすまないだろう。西洋近代が普遍的な価値だとは思わないが、アジア的な人治政治がそれよりすぐれているとも思えない。中国人の暴動は彼らの政治への絶望の表現だが、日本人にはまだ絶望が足りないのかも知れない。