私の留学先で、国際公法の講義を担当されていたのはロザリン(ロズ)・ヒギンズ(Rosalyn Higgins)教授だった。
私が教授の講義を受けていたのは1992~1993年のことだが、当時から国際公法の第一人者として高名だった教授は、1995年に国際司法裁判所の判事に選出され、2006年から2009年まで所長(President)を勤められた。
ちなみに教授の後任の国際司法裁判所所長は、あのやんごとなき方のご尊父様である。
正直なところ、ヒギンズ教授の講義は、当時ハナタレ学部生だった私には「偶蹄目動物にナントカ」のたとえ通りだったが、それでもやはり記憶の片隅に、講義の断片が残っている。
一番印象的だったのは戦争犯罪に関する講義だ。
ニュルンベルグ裁判で、「非戦闘員に対する非人道的行為」や「都市町村の恣意的な破壊」は戦争犯罪とされた。
にもかかわらず、広島、長崎への原爆投下に対してアメリカ合衆国は戦争犯罪に問われない。
当然、「なぜだ!」ということになる。
「正義とは、強者の意志にほかならない。」
とは、プラトンの「共和国」でトラシュマコスが叫んで以来、人類史上不変の問題提起だ。
こうした疑問に答える壇上のヒギンズ教授は、あの時いかにも不服そうな顔をしていたであろう私をにらみ...もとい、私の目をみて語りかけるように講義を続けてくれた。
要するに、国際公法は法律としては不全であるということ。ポシティビズムなどによる実定法ベースの法哲学と異なり、国際公法は公権力に基づく強制力をもたない。そこに「法の支配」は存在しない。なぜなら国際公法はその構成員である各国の宗主権を有効に拘束することができないからだ。
国際公法が拠るところの法哲学はNormative jurisprudenceだ。つまり「国際法の下の正義とはこうあるべきだ」という規範倫理(normative ethics)に基づく法体系なのだ。
したがってその実際の適用においては、矛盾が存在し、不公平がある。
しかし現にこうした国際公法の下における慣習の積み重ねにより、絶対的ではないにしろ、ある程度の実効力を有しているのが現時点における国際公法のありようなのだ。
したがって「領土・領海にかんする紛争は国際司法裁判所において国際法にもとづき正々堂々と...云々」などという政治家の主張は、建前としては正解だが、実際にはあまり効果がない。効果があるとすれば、それは「国際司法裁判所の権限を認めない某国のスタンスは国際規範にもとる」という、いささか迫力に欠ける主張でしかない。
しかもこうした論調は「諸刃の剣」になりうる。「では、尖閣諸島の問題も、国際司法裁判所で...」などといわれたら、もともと我が国のスタンスは「問題自体が存在しない」ということなのだから、傍目からみると「ダブル・スタンダード」のそしりを受けかねない。あまり頭のいい議論の進め方ではないだろう。カンチガイの「法の支配」に軸足をおいた、国際法議論はたいがいにしてほしい。
重要なのは、国際公法の下における絶対の国際規範、または価値観は、こうした国際紛争は平和裏に解決されなければならないということ。
すでに著名ブロガーの方が雄弁に主張されていることなので、重複は避けるが、私たち個々の日本人は、日本人としてのプライドと国際規範を重ねて、節義ある態度をもって公私において国際社会と関わっていくことが大切だということだ。まちがっても祖先の顔にドロをぬり、子孫に汚名を残すような行動があってはならない。