池田信夫著『平和の遺伝子:日本を衰退させる「空気」の正体』(白水社)は、日本人が長い歴史の中で培ってきた「平和の遺伝子」、すなわち争いを避け、調和を重視する文化的性向が、現代の国際社会ではむしろ脆弱性として作用していることを鮮やかに浮き彫りにしている。縄文時代に端を発するこの性向は、定住社会における共同体の維持を可能にしたが、それは相互依存と内部秩序に最適化されたローカルな進化であり、外部からの脅威に対する耐性には乏しい。
まさに今、日本はその限界に直面している。トランプ政権が掲げる「アメリカ第一主義」は、従来の同盟秩序を揺るがし、日本の安全保障や貿易構造を根本から不安定化させている。日本は、アメリカという後ろ盾のもとで「平和国家」としての立場を維持してきたが、その構造自体が変容しつつある。トランプの突発的な発言や政策変更に過剰に反応し、国としての自律性がないまま振り回されている現状は、まさにこの「平和の遺伝子」による無力化の帰結のように見える。

石破首相とトランプ大統領 首相官邸HPより
さらに、中国の経済的・軍事的膨張も、日本にとって厳しい現実を突きつけている。中国は、自国の領土的野心や影響力の拡大をためらわず、現状変更を既成事実化する戦略を着実に進めている。こうした変化に対して、日本は十分な軍事的抑止力や外交的戦略をもたないまま、かつての「村社会的平和」の延長線上で対処しようとしている。だがそれでは、グローバルな力の均衡の中で後手に回り続け、国際社会の中での地位を失いかねない。
本書の中で描かれた「部分最適を繰り返す日本型デモクラシー」や、「村八分」によって異質な意見を排除する文化的選別は、平時には機能するかもしれない。しかし、地政学的なリスクが高まる現代において、それは危機管理や戦略的判断を著しく鈍らせてしまう。戦後、米国の核の傘に安住してきた安全保障構造も、今や維持不能になりつつあり、自らの力で国を守る覚悟と制度を再構築する必要に迫られている。
本書が明示しているように、日本の平和は地理的幸運や歴史的偶然の上に成り立ってきた。だが、「平和を望むだけでは平和を保てない」という現実が、トランプ政権や中国の台頭によって容赦なく突きつけられている。これまで日本を支えてきた文化的進化が、逆に「変わらないことへの執着」となってしまえば、それはもはや美徳ではなく、国を滅ぼす足枷でしかないだろう。
今こそ日本人は、長く続いた内向きの平和への依存から脱却し、歴史の偶然に甘えず、現実的な国家戦略と自主防衛の意志を明確にすべき時に来ている。『平和の遺伝子』は、そうした覚醒をうながす鋭い問いかけとして、極めて示唆に富んでいる。
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『平和の遺伝子:日本人を衰退させる「空気」の正体』(白水社)
はじめに
序章 新型コロナで露呈した「国家の不在」
I 暗黙知という文化遺伝子
第一章 文化はラマルク的に進化する
第二章 「自己家畜化」が文化を生んだ
II 国家に抗する社会
第三章 縄文時代の最古層
第四章 天皇というデモクラシー
III 「国」と「家」の二重支配
第五章 公家から武家へ
IV 近代国家との遭遇
第七章 明治国家という奇蹟
第八章 平和の遺伝子への回帰
第九章 大収斂から再分岐へ
終章 定住社会の終わり