「橋下維新」と尊王攘夷

池田 信夫

尊王攘夷は、日本では珍しく原理主義的な運動が政治的に成功した例である。これは昔話ではなく、いま進行中の「橋下維新」を見る上でも参考になる。橋下徹氏みずから「維新八策」などのメタファーを使っているように、それは尊王攘夷をまねているからだ。


橋下氏の唱える「決定できる民主主義」は、たしかに尊王攘夷と似ている部分がある。彼が大阪でやった改革は、首長が意思決定を現場に丸投げするのをやめ、首長がみずから決めることだ。これは堕落した幕府から「本来の統治者」である天皇に大政奉還し、天皇親政で現状を打破しようという尊皇派の「一君万民」イデオロギーに近い。

尊王攘夷は、よく誤解されているように排外主義ではない。それは列強の侵略にそなえて国家を統一しようとするもので、対外的な通商を拒否したわけではない。吉田松陰は日米修好通商条約のような不平等条約には強く反対したが、「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁[ナポレオン]を起こしてフレーヘード[自由]を唱へねば腹悶医し難し」として、むしろ列強と肩を並べる強国になることを目ざしたのだ。

このとき国家統一の障害になったのが、天皇の代理人でありながら武力を独占し、身分秩序や地域分割を固定していた徳川幕府だった。丸山眞男の指摘したように、精神的な正統性と実質的な意思決定を分離する「まつりごとの構造」は、どこに権力の中枢があるのかをわかりにくくし、日本で古来から続く「決められない政治」の原因になっている。

ここで水戸学の「幕府は正統的な支配者ではない」という思想が利用され、「君側の奸」を除いて一君万民の律令制度に「復古」するという尊皇思想で明治維新が行なわれた。明治維新の英訳はMeiji Restorationであり、日本維新の会が欧米メディアに「復古的な運動」と誤解される原因もこのへんにあるが、維新とか「大政奉還」という儒教用語は、幕府の正統性を否定するために利用されただけで、現実に行なわれたのは復古でも攘夷でもなく、ヨーロッパ大陸の絶対主義の模倣だった。

この点で橋下氏の改革を「維新」と名づけるのは、当たっている面がある。橋下維新の中身も復古的ではなく、小泉改革のような「小さな政府」路線によって財政危機を突破しようという(よくも悪くも)常識的なモダニズムである。しかしその手法は中国的な人治主義で、かつて皇帝の正統性を保証した「天命」の代わりに、「選挙で選ばれた」というのが橋下氏の権威の根拠になっている。

このようにいろいろなシステムを折衷した橋下維新には、大きな弱点がある。それは組織が橋下氏の属人的な求心力に依存していて、理念や原則がはっきりしないことだ。幕末の討幕運動のエネルギーになったのは、生活の困窮する下級武士の不満だけではなく、それを理論的に正当化する尊皇攘夷思想の「律令の世に帰れ」というロマン主義だった。

橋下氏に欠けているのは、儒教のような知的に洗練された理念と、それに命を賭ける人々の情念だ。すでに国会議員とのゴタゴタが報じられているように、維新の会は次の選挙で勝てない議員の「駆け込み寺」であり、その理念に共感して集まった議員は少ない。このような実利的な集団は、勝ち目がないとわかるとすぐ解体するだろう。