「いい人」が日本をだめにする

池田 信夫

アゴラにも転載された城さんの記事についてひとこと。慶応の清家塾長には、私が昔NHKにいたとき何度も番組に出てもらった。経済番組のキャスターに起用されたこともある。「空気」を読んで局側のいいたいことを言ってくれるからだ。


清家氏はとても人当たりの柔らかい人で、労働経済学者には珍しく終身雇用を擁護するのが印象的だった。その持論は今も変わっていないようだ。こういう温情主義は民主党政権にも受けるので、あちこちの役所の審議会に引っ張りだこらしい。今の彼の仕事ぶりは知らないが、実務は事務局にまかせて自分は政府や業界の「外交」だけをやっているのだろう。こういう調整型の「いい人」が企業でも出世する。

このようにトップが実質的な意思決定を行なわない構造を、丸山眞男は「まつりごと」と呼んだ。最高権威をもつ天皇は権力をもたず、その下の摂政・関白などの「令外の官」が実務を行なうが、その権限もさらに家司などの官僚にゆだねられ・・・といった責任と意思決定が一致しない構造がさまざまなレベルにフラクタルに見られる。

精神的な権威と実質的な権力を分離する集中排除の原理は、多くの中間集団が互いに争わないで平和共存する知恵である。全体を統括するリーダーがいないと誰かがリーダーになろうとして争いが起こるので、形式的にはリーダーを置くが、強い殿様が改革によって中間集団の既得権を侵害すると、部下が決起して押込によって引退させてしまう。

清家氏の「高齢者の雇用を延長すべきだ」というのは、城さんも批判しているように労働市場の外側で最初から雇用されない若者を見ていないが、そういう内向きの利害調整が日本のリーダーの仕事なのだ。彼の仕事は既得権の調整なので、何が普遍的に正しいかなんて考えない共同体的功利主義が日本の伝統である。

こういう閉じた社会は、戦後の高度成長期のように多くの中間集団の利害が基本的に一致したときにはよかったが、今のように利害対立が大きくなると、意思決定が麻痺してしまう。グローバル化によって日本は否応なく開かれた社会への移行を迫られているが、そういう大きな変化を実現するのは「いい人」ではなく、「一君万民」型の独裁者だろう。