書評:『昭和陸軍の軌跡』を読む --- 中村 伊知哉

アゴラ


昭和陸軍の軌跡 – 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

川田稔 著「昭和陸軍の軌跡」。
満州事変から対米開戦に至る永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一の構想の分析。
解読不能な部分もあるが未知だった事項も多く刺激的なので、自分なりに整理メモを作ってみました。
ターニングポイントは4つあると読みます。


○統制派vs 皇道派
第一次大戦で戦争が国家総力戦となったとの認識により、統制派の永田は国防資源を得るため外国との経済・技術交流を必須と考えていたのに対し、皇道派(主流派)の小畑らは対ソ好戦。
 →即ち、派閥争いは元は政策対立だった。

天皇機関説に対抗する国体明徴運動は皇道派が統制派を失脚させる試みだが失敗。他方、皇道派は北一輝らの国家社会主義を嫌悪していたが、青年将校グループと手を組むため飲んだ。
 →あれは陸軍内の抗争問題だったのか。

永田暗殺、2.26事件を経てこの対立は統制派の制圧で終了。
 →組織内対立がテロで解決されていくリアリティは現在は共有できない。
  これが陸軍のターニングポイント1。

○石原vs武藤・田中
36年当時、石原は対ソへの危機意識からくる米英など国際関係に配慮、中国に対しても日本自ら侵略的な帝国主義を放棄すべしとの立場。
 →満州事変を起こしながら不拡大とする頭脳的方針は重厚な組織では浸透しにくいことを制御できなかったことが限界。

事態不拡大派の石原作戦部長と拡大派の武藤作戦課長・田中軍事課長が対立。その後、石原は部下との抗争に敗北、陸軍中央を去る。
 →石原の敗退が陸軍のターニングポイント2。

両陣営の対立が廬溝橋事件を発生させるが、その1月前のスターリン大粛正でソ連軍大打撃の情報が入ったことが背景にある。
 →革命後のソ連情勢をどう読むか。中国、米国と並ぶ三大判断材料。

○武藤vs田中
三国同盟と日ソ中立条約はセットであり、条約締結直後にアメリカから届いた中国からの撤兵案をみて武藤は日本は救われたと満足した。
 →A級で絞首刑となる武藤がそれほど対米戦を回避したかったことを知った。

三国同盟の維持か対米英親善への国策転換か、国家命運の基本問題に陸軍も悩んだ。これは独ソ戦をどう展望するかで考えが分かれた。
武藤は独ソ戦は長期持久戦になるとみたのに対し、田中は対ソ戦の好機、南部仏印進駐もよしと考えていた。
 →石原失脚後の武藤-田中が政策対立、武藤の後退がターニングポイント3。

田中の好戦論に対し武藤は、北方の対ソ戦と南方の対米英戦の同時両面戦争を危惧、これは海軍とも同じ認識だった。
南部仏印進駐によるアメリカの対日石油禁輸により、田中は北方武力行使を断念する一方、武藤は日米交渉に全力を投入することになる。
ワイマール共和国の3年をドイツで過ごした武藤はナチスに距離を取り、ナチスが政権を掌握したころ1年半ドイツに滞在した田中はナチスに傾斜。
 →この両者のドイツ派遣は日本史上とても重大な人事ではないか。

武藤は長期国家総力戦のためには東条ではない国民的基礎をもつ内閣が必要とし、それがため南方に左遷。覇を握った田中も作戦を巡り東条首相に暴言を吐き南方に左遷。
 →結局、不戦・好戦とも失脚で制御不能に。これがターニングポイント4。

武藤・田中左遷後、有力な幕僚は現れず、東条は場当たり対処で臨むが、44年7月、サイパン島陥落後に総辞職。
 →戦死者の大部分はこのサイパン陥落後の犠牲者である。

さて。
陸軍の所業への批判はあまたあるが、ポジティブに読み解くとすれば・・・2点か。
中国、ソ連、米英、仏印、独伊。命がけで国際情勢を読み、政策立案していた。現在のような対米中韓との場当たり対応はあり得ない。
政策発動・変更を巡っては厳格な手続があった。会議での決定・命令であったり、殺人であったり人事であったり。原発停止・再稼働のような「依頼・要請」はあり得ない。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年1月13日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。