「悔恨共同体」の遺産

池田 信夫

後衛の位置から―『現代政治の思想と行動』追補きのうのメア氏の話は深刻である。国務省の日本グループのリーダーで、妻も日本人である彼がこの問題を理解していないということは、世界中が日本を誤解しているということだ。安倍訪米の日程がいつまでたっても決まらないのも、こういう問題がからんでいる疑いがある。

メア氏が理解していないのは、日本の知識人やジャーナリズムに独特のバイアスである。かつてそれを左翼の「自虐史観」と批判したグループがあったが、これはそんな単純なイデオロギーの問題ではない。丸山眞男は、かつてそれを悔恨共同体という卓抜なネーミングで呼んだ。


丸山によれば近代日本の知識人は3度、専門の違いを超えた「共同体」で結ばれたことがある。明治初期から自由民権運動の時期と、大戦間の共産主義運動の勃興期、そして終戦直後である。第1の共同体は西洋の自由主義に支えられ、第2の共同体はマルクス主義に支えられた。そして第3の共同体は「戦争を阻止できなかった」という悔恨に支えられたのだ。

しかし本書が出た1980年代には悔恨共同体も風化し、知識人はそれぞれのタコツボに帰り、戦後民主主義を支えた「革新勢力」は政治的には無力になって使命を終えてしまった――丸山はその歴史を革新勢力の側から書いているのだが、その限界を「ブルジョワ的制約」に求める全共闘的な批判に、彼はこう反論する。

近代日本において、ブルジョワジーはかつて一度も普遍主義やヒューマニズムにコミットしたことはありませんでした。もし日本の知性における「普遍主義」に疑問を投げかけるとすれば、それは「普遍主義」が、中国とか西欧列強とかいう、日本の「外」にある特定の国家や、文化の特定の歴史的段階――十九世紀の西欧文明といった――に癒着し、それ自体が一個の特殊主義(particularism)に堕した、あるいは堕する傾向がある、という点にあると思います。(本書pp.127-8、強調は原文)

マルクス主義の場合でさえ、その理想は観念的なユートピアではなく「親ソ派」か「親中派」かといった特定の国家であり、どちらも否定するトロツキズムが輸入されたのはヨーロッパより20年近く遅かった。『「日本史」の終わり』で私の使った言葉でいえば、昔から日本人は他民族中心主義なのだ。

90年代に慰安婦問題が出て来たのは、偶然ではない。社会主義が崩壊したあと、朝日新聞や福島瑞穂氏が他民族中心主義の新たな「正義」として見出したのが、アジアだった。それまで無視されていた「従軍慰安婦」や「強制連行」を(私を含む)メディアが新しいネタとして取り上げたのも、「アジアに対する戦争責任」という企画が通るようになったからだ。

そこでわれわれが依拠した基準は、丸山のいう「特定の国家に癒着した一個の特殊主義」だった。日本軍のやったことはすべて悪いのだから、民間人の経営していた売春宿にも謝罪しろ、という荒っぽい歴史観は日本人からは出てこないものだ。それは日本軍を撲滅しようとするGHQの発想であり、東洋人はそういう賤しいことをする民族だという西洋人の自民族中心主義である。

朝日や福島氏はそういう「外圧」で自分の虚偽の主張を支えているのだ(彼らを知識人に数えるとしてだが)。それは自虐史観ではなく、彼らの脳内の中心であるアメリカ的な「国際世論」の立場から日本を断罪する他虐史観である。こうした悔恨共同体の限界について、丸山はこう指摘する。

ナショナリズムの根本が「よかろうが悪かろうが自分の国だ」という有名な言葉に凝縮されているように、本当の普遍主義は、「うち」の所産だろうが「外」の所産だろうが、真理は真理、正義は正義だ、というところにはじめて成り立ちます。[・・・]国際人(これ自体が妙なコトバですが)とは外国とひんぱんに往来する人ではないのです。それは抽象的思考の次元の問題ではなく、感覚の問題です。(p.129)

普遍主義を「よそ」に求めるかぎり、それに対する反発は「うち」なる土着主義になるほかない。民主党政権の社民主義の反対物が安倍政権の国粋主義しかないことが、日本の精神的貧困を示している。この不毛な対立を乗り超えないかぎり、日本は成熟できないだろう。