ミクロとマクロのギャップ:合成の誤謬

小幡 績

ミクロとマクロとのギャップにこそ、真実がある。


その意味で、現在のマクロ経済学におけるミクロ的基礎付けの考え方は基本的に誤っている。

行動経済学に、これを打破する可能性があるが、いまのところ、行動経済学ではミクロモデルの確立が先決で、マクロへのミクロ的基礎付けということにはなっていない。behavioral macro economicsというものもあるが、これからだ。ただ、ハーバードに行ったときの当初のアドバイザーだったLaibsonがこれに取り組んでいるので、楽しみではある。

行動経済学よりも、これに直面しているのは、行動ファイナンスで、金融市場を扱っているから、金融市場こそ、合成の誤謬がもっともドラマティックに現れる(かつ、表れる)場であるので、当然と言えば当然なのだが、それでも、ミクロとマクロはばらばらである。

ケインズの本質もここにあり、流動性の罠とは(ケインズはこの言葉は使わず、流動性選好だ)、ゼロ金利制約とは無関係で、合成の誤謬による、縮小均衡に近い現象だ。

リフレ派の主張の欠陥、ミクロの基礎付けの無い、おおざっぱなマクロとも呼べない、ナイーブな貨幣数量説が誤っているのは、ミクロ的基礎付けがないのではなく、ミクロとマクロがつながらないところにあるのだ。

だから、ミクロを捨象した方がむしろ説得力がある議論が出てくる。

なぜなら、ミクロとマクロで矛盾する現象が出てくるときに、ミクロを諦めてしまえば、マクロで自由な議論が出来、結果として現れている現象を、都合良く、例えば、相関を因果関係のようにうまく説明してしまえば良いからだ。

ミクロからまじめに積み上げていく議論が不利なのは、ミクロを普通に積み上げては、合成の誤謬は出てこないからだ。リフレ派いやもっと正確に言えば、フリードマンなどの頭は良いがナイーブな貨幣数量説に、負けてしまうのは、わかりにくいだけで無く、結果としての現象に対する予言が誤っているからだ。

だから、我々に必要なのは、リフレ派がマクロ現象だけをあまりに簡単に説明するのを見て、何かがおかしいな、と思い、そのおかしさの原因を追及することだ。

そこに、ミクロとマクロのギャップ、合成の誤謬の真の要因を発見することができるからだ。

その意味で、リフレ派は我々の知見の進歩に貢献している。

その意味で、リフレ派は素晴らしく、リフレ派は”ヤバい” のだ。