3月22日の夜、虎ノ門のホテルオークラで、BSフジの番組「プライムニュースの集い」が開かれた。
そこに、官邸からのサプライズゲストという形で安倍晋三首相があらわれたのは午後7時過ぎのことだった。安倍首相のスピーチを生で聞くのははじめてのことだったが、そこにはオーラが漂い、話ぶりは自信に満ちていた。
安倍首相は、前の年に同じ場で挨拶したときのことにふれ、その「時は野党で、与党の民主党が存在感を示していたので、『これからは私たちが主役になる』と悔し紛れにあいさつした」と語って、会場の笑いを誘った。私はその挨拶を聞いたはずなのに、それを思いだせなかった。たしかに、昨年の同じ時点で、安倍氏が首相に復活するとは誰も考えていなかったはずだ。
そして、「野党の皆さんには10年間ほど待っていただきたい」と会場にいる民主党の議員に対して語りかけ、その間は自分たちが与党として頑張っていきたいと抱負を述べたが、自分が10年やるわけではないと断ることも忘れなかった。
このところ、アベノミクス効果で景気が回復していると言われていることもあり、安倍首相のスピーチには余裕があり、ユーモアに溢れていた。非常に特徴的だったのは、話のなかで、首相の座を明け渡し、野党の地位に甘んじていた時代の自分のことを引き合いに出し、それを笑いのネタにしている点だった。
歴代の首相のなかでも、そんな話し方をした人物はいなかった。人気抜群だった小泉純一郎氏にもそれはなかった。自分をネタにできるということは、自分とのあいだに距離をおいていることを意味する。
それは、最近注目されるようになっている首相官邸のフェイスブックについても共通して言えることだ。これは、フェイスブックのなかでも断トツの注目度を誇るもので、「いいね」は18万を超えている。
首相官邸のフェイスブックの特徴は、安倍首相がどういった活動をしているかが写真で紹介され、そこに首相自身のコメントが添えられていることにある。写真のなかには、日米首脳会談でオバマ大統領と会談しているときのものもあり、そもそも迫力が違うが、首相の日頃の活動がビビッドに伝わってくる。
秀逸なのはコメントで、「官邸スタッフです」と断ったもの以外は、首相自身が書いている。それを読むと、首相の肉声が思いだされるので、本人が書いていることは間違いない。
たとえば、大田区の町工場を訪れ、そこの人たちの対話をしているときの写真には、「国会を終えた後、今晩は大田区を訪問し、町工場の方々と意見交換をしました。なんと、30社超の町工場がものづくりの力を結集して、ボブスレー競技用の世界最速の『そり』の開発に挑戦しているそうです」と、素直なコメントを寄せた上で、「ねじれ国会の中で、昨日なんとか成立に漕ぎつけた補正予算でも、民主党政権が仕分けた町工場の試作開発支援を大々的に復活させ、約1000億円を準備しました。最大限活用してもらい、高い技術とやる気のある『ちいさな企業』の方々を応援したいと思います」と、法案を通すことの難しさや民主党批判をさりげなく折り込みつつ、町工場の人たちをどう具体的に助けようとしているのかが説明されている。
プライベートなことも盛り込まれ、甘利大臣の令嬢の披露宴に突然顔を出したときのことについては、「新郎新婦にも秘密のサプライズで、麻生さんと一緒に登場したところ、会場は絶叫の渦に……」などと記されている(ただしこのときの写真は暗い首相の後ろ姿で、まったく面白くない)。
首相官邸のフェイスブックが注目を引くのは、このように写真とコメントの絶妙な組み合わせがあるからだが、写真が先にあって、それに首相自身がコメントしているという構造が重要な意味をもっている。ここでも首相は、自分とのあいだに距離をおいた上で、自分の思いを表現しているわけだ。これは、スピーチで自分のことを笑いのネタにしたときと共通する。
安倍首相は一度、地獄を見た人間である。2006年に戦後最年少の首相となったものの、翌年の参議院選挙で自民党は敗北した。続投を表明し、臨時国会で所信表明演説を行いながらも、その2日後に突然退陣を表明した。前代未聞の退陣劇で、その裏には健康問題があった。そして、2年後に政権交代が起こり、自民党は政権の座を民主党に明け渡した。
安倍氏が首相の座に返り咲いたとき、私は『朝日新聞』から取材を受け、その復活劇についてコメントしたことがあった。どういったコメントだったかはっきりと覚えていないのだが、私がそんな取材を受けたのも、安倍氏と同じように一度地獄を見ているからである。
人間地獄を見ると変わる。変わらざるを得ないとも言える。いろいろな変化があるが、やはり自分の考えをことさら強調するのではなく、自分にも一歩距離をおき、その上でものを語るようになっていく。自分は一度地獄を見て、死んだと思うようになるからだろう。
私は安倍首相の政策に賛同しているわけではないし、その政治姿勢に共感しているわけでもない。だが、安倍首相の自己表現の仕方には強い興味をもっている。国民の圧倒的な支持を得ている理由も理解できる気がする。
問題は、安倍首相がふたたび難しい局面にぶちあたったときだ。そのときも、今の姿勢を堅持できるのか。その結果は、必ずやフェイスブックに反映される。私は、今後の安倍首相の動向に大いに注目しなければならないと思っている。
島田裕巳
宗教学者、作家、NPO法人「葬送の自由をすすめる会」会長
島田裕巳公式HP