原子力問題再訪--自民党政権への期待

GEPR

I31A6311

澤昭裕
国際環境経済研究所(IEEI)所長

IEEI版

エネルギー政策、民主党から転換の兆し

自民党政権に交代して、ようやくエネルギー政策を経済・生活の観点から検討しようという動きが出てきた。

民主党政権下では、「原発依存度ゼロ、その代替として再生可能エネルギー、残差が火力。それによるコスト高、安定供給不安は経済活動や生活水準の抑制で」という考え方だった。巷間意識されていないが、それはエネルギー政策というより、CO2の国内削減を至上目標とする温暖化政策だったのである。


それだけ、例の鳩山総理の25%削減目標(温室効果ガスを1990年比で2020年マイナス25%にする)が、すべての政策の制約要因になっていたわけだ。
安倍政権では、経済成長を当面の政策目標の第一に置いている。それと整合的に、エネルギー政策も安定供給と経済性(価格の低廉さ)を優先目標とし、温室効果ガスの削減目標は見直されることとなった。

経済活動や生活水準の向上を政策目的とし、エネルギー政策はそれを実現するための方法論だとする考え方への転換は、高く評価される。「原発ゼロ」「マイナス25%削減」自体を政策目標にすれば、政策方法自体が目的化し、本来の政策目的がどこか意識の外に消えてしまうからである。

再論—原発をどのように扱うか

さて、直面する課題は、その方法論としての原発の再稼働問題である。
ここで私の基本的な考え方を簡潔にまとめると次の通りだ。(これまでさまざまなメディアからの取材に対して答えてきたなかで、紙幅や時間の制限上、発言が部分的に採用され、さらに編集されてきたことから、真意が伝わらないケースもあった)

1)原発の早期再稼働が必要。その必要性は、単に個別の電力会社の経営問題としてではなく、国民経済・生活の維持・発展にとってのもの。

2)民主党政権とは異なり、現政府は再稼働に明示的にコミットしている以上、再稼働の可否は、規制委員会の判断が実質的な決定要因となる(法的には依然として不明な点もあるが)。
規制委員会は、新安全基準とその適合審査において、次の原則に基づいた規制活動を行うべき。
(澤「活断層評価で議論呼ぶ原子力規制委と電力会社への注文」参照)

1・信頼性:プロセスの法的根拠の明確化と文書による意思表明
2・効率性:リスク低減とコストとのバランスを考慮した基準設定
3・実効性:事業者の自律的安全活動を引き出す規制活動

3)一方、事業者は、規制委員会による新安全基準の遵守は単なる必要条件であり、自らの創意工夫による措置や訓練(特にソフト面)の充実こそが十分条件になるという考え方に立脚した安全対策の構築に転換すべき。

賠償を含めた中長期的な体制づくりが必要

短期的な再稼働問題に取り組む一方、中長期的には、原子力損害賠償法の改正問題及びそれと裏腹の原子力事業の遂行体制についての検討が必要となってくる。先日NHKのニュースで報道されていたが、自民党も新たに原子力損害賠償法の今後のあり方についての検討を開始するようだ。


この原子力損害賠償法は、原子力事業(発電のみならず、フロント・バックエンド両方の事業を含む)による事故の損害についての賠償責任と救済のあり方について規定しているものだ。もちろん、東電の事故についても、この法律が適用されている。

そう言ってしまうと、緊急時・異常時だけに関連する法律のような印象を与えてしまう。実は、この法案は、原子力事業に対する官民の役割分担、責任(リスク)分担に対する考え方が結晶化してくるという性格を有している。いわゆる「国策民営」などという、キャッチフレーズというか、もっともらしい表現を、厳密に法律で規定するとどうなるかというように、基本的な論点が討議されることとなる。

それだけに、政治や行政そして民間原子力事業者が、原子力事業について、真の意味でどの程度コミットしているのか、裏返して言えば、どの程度リスクを引き受ける気があるのかという基本姿勢が問われるのだ。いくら制度を小手先でいじっても、その裏打ちになる「コミットメント」があやふやであれば、当該制度自体も不安定になる。

こうした原子力事業にとって本質的な問題が等閑視されている中、電力システム改革(自由化)だけは先行しようとしており、原子力事業の大半を担っている電力会社にとっては、先行きのファイナンス・設備形成・人員配置・技術継承など、様々な問題を同時解決していかなければならないという困難が目の前に横たわっている。難解な多次元方程式を解くようなものである。

自民党でも「原子力推進」にはならない理由

自民党政権になれば、原子力推進の再び進軍ラッパが鳴り響くのではないかと期待していた人も心配していた人もいるだろう。しかし、実際にはそんなことは起こらなかったし、このままでは今後とも起こらないのではないかと思う。それはなぜか。


日本で原子力事業を推進することを決めた1950年代半ば頃から黎明期の1960年代半ばまでの熱気が、今はそれほど感じられないからである。原子力技術といえば、時代の最先端の技術であり、その技術を保有しているかどうかは、先進国の仲間入りができるかどうかという国の威信に関わる。また米ソの冷戦構造に巻き込まれた日本の軍事的安全保障との関連でも、原子力は有力なオプションとして検討すべき対象である。

さらに、経済的な意味でも、化石燃料の枯渇や自給率の低さという供給面での懸念と経済成長とともに急速に増大する電力需要への対応を考えれば、原子力は優先的な開発対象という判断も自然なものだったと言える。原子力を後押しする熱気は、今からは想像もできないくらいのものであり、技術面での特殊性も相まって、原子力事業に適用される法律や制度については、他の一般の産業とは異なる特別の枠組みが設定されてきたのである。


そうした時代背景と比較して、現在はどうだろうか。温暖化抑制の有力手段という新たな時代的役割は与えられたものの、上記のような事情は相当変化を遂げてしまっている。例え福島第一原発の事故がなくとも、原子力事業の今後についてはエネルギー政策の範疇にとどまらず、さまざまな政策的切り口からその意義について再確認することの必要性が、早晩生じていたのではないだろうか。原子力委員会でそれなりの検討はしていたが、そこでの議論はエネルギー政策での観点に限定されており、私がここで必要だと主張している一部にしか過ぎない。

しかし、役所ベースの検討や審議会での検討では、各官庁の所掌事務の範囲内に限定され、横串を刺しての議論はほとんど不可能だ。もともと原子力推進を緒につけたのも、中曽根衆議院議員(当時)他数人の議員が共同で補正予算を提案することから始まったのである。


今般、自民党政権(当時は社会党も共同で推進していたのだが)が復活したことがいい契機である。今年後半くらいからは、原子力について、例えば党の政務調査会で「原子力問題調査会」といった一段格が高い組織を設置して、様々な観点から、新たな状況を踏まえて未来指向型で原子力技術や事業の意義を再検討・再確認してみてはどうだろうか。