個々人の成長こそが日本全体を成長させる --- 岡本 裕明

アゴラ

4月に入り、転勤或いは、新しい上司を迎えるなどして自分の周りの環境が変わった人も多いのではないでしょうか? 或いは、新入社員諸君も研修を終えて現場の第一線に飛び出している頃だと思います。

大学生には五月病というのがあるのですが、社会人にもメンタル的にやや鬱になるとすればそれは「今までと違う」ということに自分がついていけないことに原因があるかもしれません。


当然ながら会社を辞めたい、という人も出てきます。私もそんな相談は受けます。答えは基本的に二つしかありません。当たり前ですが、辞めた方がいいという場合ともっと我慢しなさい、という場合です。では私の場合、その違いをどう使い分けているのでしょうか?

辞めた方がいいという場合はその人の能力が高く、与えられている仕事のレベルが低すぎて見合っていない場合で、意味がなく時間を無駄に過ごしているケースでしょうか。そういう方に限って妙に心配性で「仕事、見つかるでしょうか?」というのですが、基本的に能力がある人に背中を押しているのですから、「大丈夫、仕事は見つかりますよ」と言っています。

一方、「辞めない方がいいですね」というのはその人の忍耐力を見て言う場合が多いと思います。「今度の上司と合わなくて」とか「新しい職場になじめない」というのは甘えです。というより自分がぬるま湯につかり過ぎていて多少の変化にも耐えられなくなっていると言ったらよいでしょうか? とてもコンサバになって、安定してやり慣れた仕事をよく知った仲間と心地よくこなしていくスタイルに満足しすぎていたのだろうと思います。

このケースの場合、辞めても仕事など見つかりません。

いまさらこんなことを言うのもなんですが、「人生 山あり 谷あり」なのです。その中で人は大きく成長していきます。つらいことや厳しいこと、緊張のあまりふらふらになりながらも乗り切るとそこには春が待っているかもしれません。

私はマラソンをやりますが、道中、必ず上り坂、下り坂があります。登りの苦しいこと。でもそこは歯を食いしばって一気に気を詰めて駆け上がります。なぜなら永遠に続く上り坂はないのです。そして、多くの場合、上まで来ると下りが待っているのです。そこで呼吸を整えなおします。また、人生をマラソンに例えると自分が今何キロあたりにいるかわかると思います。初めからあきらめて歩いてしまうのでしょうか? それとも努力して、我慢して、こらえて走り続け、もうちょっととなればそこまで頑張ったんだから走りぬこう、と思ったりします。

私は終身雇用という発想はいずれ、過去の産物になる気がしています。勿論、同じ会社で何十年と働く人は北米にもたくさんいます。それは雇用者と被雇用者がウィンーウィンの関係ですから構わないと思いますが、制度化するものではないと思うのです。雇用確保の観点は別問題として横におきますが、人が成長する時、常に力強く逞しい精神力と頑張ろうとする希望があるべきだと思うのです。それはさまざまな変化を自分の経験に取り込んでこそ、より大きくなるのではないでしょうか?

大手企業には人材の墓場のような部署を設けていることがあります。評点の悪い出来ない社員を集める部署です。そこまでして会社に残りたいのか、会社も社員も不幸以外の何者でもないでしょう。でもそれは終身雇用ゆえの弊害でもあるのです。

日本には人事異動、転勤という転職に代わる制度がありますが、それは同じ組織の中での話です。企業内の温度や体質は変わりません。仮に社員の転職が常態化すると実は雇用側も体質が変わるのです。人事部のなぁなぁや温情人事が効かなくなるのです。人事も論理的に進めなくてはいけません。

私はこういう一つ一つの積み重ねが日本を成長させるのだろうと思います。「成長の矢」ということが日々の新聞を賑わしていますが、人々の成長という観点で捉えなおしてみると自分にずいぶん甘かったな、ということに気がつくかもしれません。

会社を辞めるのはその会社で自分の能力が十分に発揮できないと思ってからでも遅くないと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年4月24日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。