憲法改正デマ問題の5本目です。
憲法改正問題にともなって浮き彫りになりつつあるのが、
人権尊重型 対 人権絶対型
という国家観の対立なのではないでしょうか。
といってもこんな用語は私が今作ったものなので辞書を見ても載っていませんから、まずはその説明からしますと要はこういうことです↓
個人の権利、公益、公の秩序という3階層を考えた時に、
「公の秩序が保たれることによって、社会が安心して生産活動を行うことができ、そこから利益(=公益)が産まれ、それによって個人の権利を尊重できる」 と考えるのが人権尊重型です。
それに対して、「個人の権利がすべてに優先する。公益や公の秩序を理由に個人の権利を制約することは許されない」 と考えるのが人権絶対型です。
憲法改正デマ(3)で紹介したような「一元的内在制約説」というのは、「公共の福祉というのは、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である」という考え方ですので、今回で言う「人権絶対型」に分類されますね。
ちなみに「人権尊重型」ではない「人権軽視型」というのがもしあるとすると
「公の秩序と公益はすべてに優先する。個人の権利は秩序と公益を害しない範囲でのみ認められる」 というのが人権軽視型でしょうか。
結局のところ、「憲法改正」で問われているのは、このような「国家観の違い」です。
「人権絶対型」の考え方を唱えた人々の中には、極端に言えば「国家は国民の敵である」という国家観を持つグループがありました。
「憲法は国を縛るものであって、国民には憲法を遵守する義務はない」とか
「公益や公の秩序を理由に人権を制約することは出来ない」
という主張は根本的にはそういう国家観から来ています。
一方、「人権尊重型」の考え方の背景にある国家観は、「国民の力で国家を作り、国家の力で国民を守る」というものです。
憲法改正問題で問われているのは、結局のところ、このどちらの国家観が妥当だと思いますか? ということです。
これは論理的に決着がつく問題ではありません。法学の問題ではなく、あくまでも政治の問題であり、感情的な対立を乗り越えて妥協点を探っていく必要があります。
・・・・(続く)