言語の遺伝子から「憲法」を考える

石田 雅彦


我々ヒトは「言葉」というコミュニケーション手段を持ったため、ほかの生物とは違う、と考える人が多いようです。ビジネスで使われる言葉や愛の言葉、相手を説得する言葉、政治家の言葉、ネット上のブログやSNS……。我々は実に多種多様な言葉を操り、自分の意思を相互に伝え合っています。


言葉には負の側面も多い。振り込め詐欺も言葉でダマされます。ダマす側、ダマされる側の戦いも複雑で高度なものになっている。今日は憲法記念日です。法律というのも「言葉」であり、ダマしダマされないための「約束事」です。詐欺罪を規定している刑法246条もそうですし、国家の理念をうたっている「約束事」の最高のものが憲法、というわけで、今日はそのことを確認し合う日、というわけです。

同じ生物同士のコミュニケーションの基本は、愛の表現、つまり「私はあなたが好きだ」っていう好意を表すこと、そして不安の解消、つまり「私はあなたの敵じゃないよ、味方だよ」っていう歩み寄りを何らかの手段で表明することです。こういうとき、ヒトは言語や言葉という手段を使うことが多い。

たとえば、鳥のさえずりや音楽のリズムやメロディーは、生物や我々ヒトの情動へ直接、働きかけます。しかし、ヒトの音楽で表現されている物語や主張は「言葉」つまり歌詞によって伝達されます。生物が共通に持つ根源的な感情への働きかけと、生物同士の関係の根底にある愛と歩み寄りのメッセージ、共感がつめこまれているコミュニケーション手段が音楽というわけです。そして我々ヒトの場合、リズムやメロディーというノンバーバルな表現と、言葉や歌詞といったバーバルな方法があるんですね。

こうしたコミュニケーションにも遺伝子が関係しています。ヒトには言語的なコミュニケーションをとるための「FOXP2」という遺伝子がある、と考えられています。FOXP2は第七染色体上にあるんですが、難読症(Dyslexia、ディスレクシア)という言語障害の遺伝疾患の家系を調べたことがきっかけで見つかりました。

このKE(単にKとも)という家系の中には、三世代にわたって難読症という言語障害にかかっていた人がいたそうです。この英国の研究者らのように、彼らの遺伝子を解析してみたところ、第七染色体上の塩基配列で一つの塩基が置換されている点突然変異がみられ、この塩基配列の部分が言語に関係するFOXP2なのではないか、と考えられたわけです。

最初、この遺伝子はヒト特有のもので、ヒトの言語の能力に関係してるんじゃないかと話題になりました。しかし、調べてみたらこの遺伝子をもってるのは我々ヒトだけじゃなかった。ワニなどの爬虫類にも、同じ遺伝子があります。さえずるのが得意な鳥類にもあるし、この中国の研究者らの研究によると、コウモリは超音波探を出して飛ぶときにFOXP2を使っています。つまり、よほど生物にとって大事な機能だったらしく、この遺伝子はかなり昔から備わっていたらしい。

もちろん、遺伝的にヒトに近いチンパンジーにもFOXP2遺伝子はあります。おもしろいのはヒトとチンパンジーとでは、FOXP2の塩基が二つだけ違っていることです。ちなみに、ヒトとマウスとでは4つ違います。

そこで「じゃ、やっぱりFOXP2は人間が言語を使う能力に関係してる遺伝子なんじゃないか。言葉を話せないチンパンジーと遺伝子の違いを比べてみれば人間の言語に何が関係してるかわかるだろう」と主張する研究者たちが出てきます。FOXP2遺伝子によってヒトが言葉を話すことのできる喉の構造を獲得した、と考える研究者もいますし、この塩基の違いがヒトの脳の言語機能領域に変化を与えたのでは、と考える研究者たちもいます。

確かに、我々ヒト特有の発話メカニズムは、ほかの動物にはないものです。また、ヒトの音声コミュニケーションは、その複雑な声帯の構造や機能によって生まれているのも事実でしょう。鳥類のさえずり学習との比較をしたこの研究のように、ヒトがほかの生物と比べて特殊、という意見は多い。ヒトとチンパンジーの共通祖先が分かれたのは、諸説ありますが今から約500万年前と言われています。ヒトが今と同じような言語機能を獲得したのはいつからかはっきりしてませんが、500万年前から下ること、かなり長い期間が必要だったと考えられています。

しかし、せいぜい数百万年から数十万年という時間で、高度な言語能力を獲得したことを不思議がる人もいます。これもヒトのコミュニケーション能力が、ほかの生物と違うという見方です。FOXP2の塩基配列に何らかの特別な作用がはたらかなければ、こんなに短期間に声帯などの構造を変えられるはずがないというわけ。ただ、ヒトの複雑な発声器官やメカニズムにほかの生物と違う塩基配列のヒトFOXP2が何らかの影響を与えている、という確かな証拠はまだ見つかっていません。

一方、ヒトの言語がほかの生物のコミュニケーション手段より優れてるわけではない、という考え方もあります。ヒトだけが特別な生物というのは思い上がり、というわけです。チンパンジーは、ヒトみたいに面倒な言葉を使ってコミュニケーションする必要がないから、しゃべらないだけのかもしれません。もし仮に、FOXP2の配列がちょっと変わったせいでヒトが言葉を話すことができたとしても、それはほかの生物と同じように特徴的な能力の一つというだけです。

ヒトは、コウモリがエコーロケーションで使っている超音波も出せなければ、イルカのカチカチいうクリック音も、クジラが出す何百キロも届く低周波音も出せません。バンドウイルカは、お互いを識別できる音声シグナルを持ち、名前を呼び合ったり、エサを見つけると互いに教え合ったりします。ムクドリは、人間の使う文法のような複雑な鳴き方を学習します。言語的なコミュニケーションを学習して使っているのは、ヒトだけじゃありません。

短期間に声帯などの複雑な構造を獲得したという点でも、キリンの首はだいたい600万年かけて4メートルも長くなったんだし、ゾウの鼻だって数百万年で長く伸びたと考えられている。あんなに姿形が変わるのも数百万年あれば可能というわけで、ヒトが長くても数百万年で喉の構造を変えたとしても、それは特別なことではありません。

進化によって外見や機能が大きく変わることで有名な例では、英国の工業地帯にいたオオシモフリエダシャクっていう蛾の一種が、約50年で体色をガラリと変えてしまったことが知られています。工業化による大気汚染の影響があり、ほんの半世紀で白っぽかった色が黒っぽく進化したんですね。これらはどれも突然変異による自然選択(自然淘汰)ですが、数百万年や数十万年というオーダーは、生物の形態や機能をドラスティックに変えられるだけの充分な時間の長さではないでしょうか。だから、言語の能力についてヒトとチンパンジーとで大きな違いが起きても不思議じゃない。

ただ、ヒトの場合、言葉によるコミュニケーションに過度に頼り過ぎているきらいがあります。また、電話やネットなど、相手の顔や表情などがわからなくても言葉だけでやりとりできる手段を得てしまった。さらに、相手を出し抜いたり裏を掻いたり、といったダマシダマされ、といったことが横行するのもヒト固有の言語コミュニケーションの特徴でしょう。

言葉によってダマされる心配を排除するためにも我々は共有の約束事である法律を作ったわけですが、憲法はその法律の中で最高のものです。近代国家の国民が憲法を尊重し合ってこそ、そこに書かれている言葉の重みや信頼性が担保されるのではないでしょうか。ですから、憲法をコロコロ変えられないような一種の規制は絶対に必要です。数百万年のオーダーで獲得してきたヒトの言語が、機能的に完全なものになることはおそらくこれからもないでしょう。そのためにも言葉の厳格な決めごとには、より繊細な態度で臨むべきだと思います。