よみがえる恐慌論

池田 信夫

岩井克人氏が、アベノミクスを論じている。彼の『貨幣論』は『資本論』の冒頭の価値形態論の焼き直しだが、そこでマルクスはまさに資本主義経済が主観的な「期待」に依存していることを強調しているからだ。ところが岩井氏は、価値形態論からこう飛躍する。

資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです。


これはマルクスでいうと資本蓄積論で価値形態論とは別だが、この話には続きがある。人々が「期待」して投機する結果、資本蓄積の過程で貨幣の本質的な不安定性が顕在化する、とマルクスは指摘したのだ。

支払いが相殺される限り、貨幣はただ観念的に計算貨幣として機能するだけである。しかし現実の支払いがなされなければならないときは、物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。この矛盾は、生産・商業恐慌の中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。(『資本論』第1巻)

つまり人々が期待する貨幣の価値と現実の価値(それと等価な商品の価値)を一致させるメカニズムは資本主義の中にはないため、期待が期待を呼んで貨幣量が膨張するバブルを生み、それが恐慌として定期的に爆発する――というのがマルクスの恐慌論である。

こういう資本主義の不安定性は、ケインズ的な総需要管理政策で回避できたように思われたが、この四半世紀の先進国の事例だけをとっても、日本のバブル、北欧の金融危機、東南アジア危機、アメリカのITバブル、そして2008年の金融危機、ユーロ危機と6回も「恐慌」と呼べるような事態が繰り返されている。途上国ではもっと日常的に、財政・金融破綻やハイパーインフレが起こっている。

19世紀には国内で起こっていた恐慌が20世紀には回避できるように見えたが、実はそれはグローバルに拡大しただけだった。岩井氏の言葉でいえば、「モノではなく、お金を持つのは、使えば他人が受け取ってくれることを期待している。それも投機です。資本主義の不安定性は、金融市場の問題というより、お金の本質から導き出されるのです」。期待はつねに裏切られ、資本主義は崩壊するリスクを含んでいるのだ。

しかし恐慌が爆発してプロレタリアートが武装蜂起で資本主義を倒す、というマルクスの期待した革命は、先進国では起こらなかった。それは中央銀行が通貨の価値を管理し、信用が完全に崩壊することを防いだからだ。政治家は「輪転機をぐるぐる」回して財政をまかなう誘惑に駆られるので、中央銀行の独立性を保証する法律がつくられ、インフレを抑制するためにインフレ目標が導入された。

ところが安倍政権は、1000兆円を超える政府債務という爆弾を抱えた日本で、270兆円ものガソリンをまいてインフレの火をつけようとしている。彼らが日本経済を「焼け跡」にして出直そうとしているのだとすれば、それも一つの戦略だろう。幸か不幸か、日本は歴史上そういう「ガラガラポン」によってしか本質的な改革はできなかったからである。