BLOGOSに田原総一朗氏がした『ワシントン・ポスト』など外国主要メディアの安倍首相批判、ここが大間違いだ!という投稿に対して、木走正水氏が田原総一朗氏の主張が日本の国益に沿うとは到底思えないという反論を載せている。
形勢判断や結論においては木走氏と同じだが、いま「アメリカに逆らいちゃぶ台返し」するのはまずいという木走氏の理由付けだけでは残尿感(笑)があるので、二つの論点について、私なりの「補助線」を引いて考えてみたい。
1)「太平洋戦争」は「日本の侵略」ではない(太平洋戦争は、「侵略国」であるイギリス、アメリカなどの連合国、 そして同じく「侵略国」である日本との闘いだった)
これは「日中戦争は侵略で申し訳なかったが、太平洋戦争は『普通の戦争』で、悪びれるところはない」といういわゆる「二つの戦争」論だ。
真珠湾攻撃のニュースを聞いた少なからぬ日本人が「カラリと晴れた」気分になったというから、当時もいまもそう考える日本人は多いのだろう(かく言う私も昔はそう考えていた)。
でも、「二つの戦争」論は日本人独特の史観で、百回唱えても他国に理解されることはないと思う。世界通用の理解は、日本の対中侵略が(植民地が多数残存していた当時の感覚からしても)許される限界を越えてしまったことが「太平洋戦争」を導いた、ということであり、「あの戦争は(連続した)一つ」なのである。
これには史実の裏付けがある。対米開戦を知った日本人が「カラリと晴れた」気持ちになったのは、直前の「ハルノート」の理不尽さに憤っていたからだが、途中まで妥協が成立する望みもあった対米交渉(対日禁輸解除交渉)が、ハルノートで一挙に暗転したについては、米国から妥協的な方針の事前協議を受けた中華民国(蒋介石政権)の猛烈な巻き返しや英国(チャーチル)の後押しがあった。
つまり、中国大陸での戦さで負け続けていた中国が、外交戦で日本に反撃した結果がハルノートなのである。そして、最後は「日本に勝った」。日米戦争に直接参加することは勿論なかったが、それは大日本帝国を消耗させ、大陸で戦えなくさせるための最大の戦略であった。だから、中国にとっては、日本の対中侵略戦争と日米戦争は断じて「二つの戦争」ではない。「一つ」なのである。
ほかの国にとっての「一つの戦争」度合いは、中国ほどではないかもしれない。英国は対独戦に米国を引き込むことが文字通りの死活問題だったから、策略として中華民国を後押しした。日米が開戦すれば、「枢軸国連合対連合国」の戦いになるからである。だから、英国にとっても「あの戦争は一つ」であり、そこに「日独伊のファシズム連合と残る世界の戦い」という色付けも加えられる。
そして、米国。日本の対中侵略がなかったら、日本と戦争までする理由もなかった。そして、欧州と太平洋の両方で同時に戦うことは、米国の力を持ってしても「総力戦」を要した。「たまたま二つの戦争を同時並行でやることになった」では、国民も力が出ない。「ファシズムと戦う」というバインダーが不可欠だった。米国にとっても当然、戦争は「一つ」である。
そういう記憶を持つ顔ぶれを向こうに回して、「あの戦争は二つだった」と唱えても、受け容れられるはずがない。田原氏は他方で「対中戦争は侵略だった」と認めてバランスを取っている積もりかもしれないが、「二つ」に分けることが容れられない以上、「反ファシズム闘争だった」という世界の「公史」に挑む危険な考え方だとして、中国ほかに乗じられるだけである。
2)極東軍事裁判が「平和に対する罪」という事後法でA級戦犯を処断したのは間違っている
この論法の最大の問題は、極東軍事裁判が、敗戦国日本が選び取ったディールだったことを等閑視する点である。もちろん喜々として選んだ訳ではなく、やむを得ざる選択ではあったが。
それは戦争の責任追及を最小に限定するためのディールだった。当時の日本のエスタブリッシュメントの心情としては、昭和天皇の責任追及を避ける(国体護持)というのがいちばん大きかっただろうが、それだけではない。寛大な講和条件で、しかも早期に主権を回復して国際社会に復帰するため、というのも大きかった。逆に言えば、敗戦後、米国を始めとする連合国側に向かって「日本は悪くない」と言い張れば、昭和天皇は処刑されていたかもしないし、賠償は軽めの「役務賠償」(日本経済にとっては「特需」だった)などでは済まず、占領(“Occupied Japan”)が永く続いていただろう。そうなっていたら、戦後の日本国民はどれほど苦しんだか。その意味では、戦前、マスコミの煽動に乗って、「対中進出」を好戦的に支持した日本国民を免罪する意味もあった。
そういうディールにするために、当時のエスタブリッシュメントがやったことは、生贄(A級戦犯)を差し出すことだった。戦犯調査に当たっていた占領軍当局には、A級戦犯たちの責任の重さを断罪する大量の密告が届いたことを、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」が活写している。A級戦犯たちは、占領軍だけでなく、同胞による見えない包囲網がジワジワと狭められていく(「罪をかぶって死んでくれ」)のを感じていたはずである。
少数者に責任を代表してもらって、残りの日本が免罪されるためには、少数者の罪が重くなければならない。だから、「人道に対する罪」なのである。 そういうディールであり、ショーであった。だからこそ、ウィロビー(GHQのGⅡの長)は「この裁判は史上最悪の偽善だ」と吐き捨てたのである(「敗北を抱きしめて」)。
戦後日本は、昭和天皇にも一般国民にもあった戦争責任をA級戦犯にかぶせて復興を図った。そのディールで復興を遂げて経済大国に復活したいまになって、一部の政治家のように「あの戦争は自衛戦争だった、日本は悪くない」と言うのは、レストランで出された食事を平らげ勘定を済ませた後で、「自分が食べたかった料理じゃなかった(金を返せ)」と言うようなものだ。占領当時にそれを言っていたら、いまの日本はなかった。当時そう思ったからこそ、ディールしたのが我々の先代ではないか。疚しいのは当たり前だが、疚しさから逃れるために、いまさら「日本は悪くなかった」と言うのは卑怯だ。
田原氏が言う「あの戦争の総括」はやったらよい。しかし、それは、極東軍事裁判が敗戦国日本が選び取ったディールでもあった重い歴史を振り返るものであるべきだ。
(平成25年5月13日記)