福島の除染「1ミリシーベルト目標」の見直しを(上)--意味はあるのか

GEPR

gepr-banner_160 経済・環境ジャーナリスト 石井孝明

【GEPR編集部より】雑誌Will のご厚意で同誌7月号に掲載したリポートを転載させていただく。同誌スタッフの皆さまに感謝を申し上げる

このリポートはGEPRの編集スタッフの石井孝明が、以前掲載した論考「福島の除染、「1ミリシーベルト」目標の見直しを」 を福島の方のインタビュー、識者コメントを加えて加筆したものである。

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(除染の状況、環境省ホームページより)


【以下本文】

東日本大震災、東京電力福島第1原発事故で、困難に直面している方への心からのお見舞い、また現地で復興活動にかかわる方々への敬意と感謝を申し上げたい。

原発事故に直面した福島県の復興は急務だ。しかし同県で原発周辺の沿海にある浜通り地区でそれが進まない。事故で拡散した放射線物質の除染の遅れが一因だ。「被ばく水準を年1ミリシーベルト(mSv)にする」という、即座の実現が不可能な目標を政府が掲げていることが影響している。

この目標は時間と金の無駄を生み、そして避難者に「帰れない」という心理的なストレスを与えている。一連の政策は民主党政権の残した負の遺産の一つ。1mSv目標の見直しを、政府は早急に行うべきだ。

人影の減った町がきれいになる「むなしさ」

図表1 除染の範囲

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(環境省ホームページより)

「除染の目標達成に苦慮している。できる数値を示してほしい」。今年2月に佐藤雄平福島県知事は、国との意見交換会で除染の目標の非現実性を訴えた。それに国側は答えを示せなかった。福島県の困惑をもたらしたのは、遅々として進まない除染の現実だ。

環境省は今年3月、除染の進捗状況について福島の11町村の除染特別地域の状況を公表した。この地域は事故を起こした福島第一原発の近郊で、国の計画の下で除染を行う。2月時点で実施は田村市など4町村にとどまり、ほかは計画策定さえできていない。2年前には除染を13年度末に終える計画だったが、達成はおそらく無理だ。

図表2 除染の状況
02「除染」とは、環境省によれば福島原発事故問題の場合で言うと放出された放射性物質を取り除くことだ。(環境省除染情報サイト)具体的な取り組みでは、放射性物質が拡散した表土や、樹木などを集め捨てる。個人宅では家を高圧放水で洗い流す。

1mSvは自然界からの放射線の被ばくレベルであり、そこまで下げれば事故による健康被害の可能性はほとんどなくなる。日本での自然放射線の被ばく量は平均で年間2・1mSv程度だ。ちなみに当然のことだが、数値を引き下げようとするほど、除染には手間がかかり、それにともなってコストと時間が必要となる。

しかし徹底した除染が本当に福島の被災者のためになるのだろうか。政府は東電福島第一原発近郊で放射線量の高い場所で避難勧告を行っている。避難者数は約16万人だ。その地域での除染を公約したために、それが進まなければ人々が帰れない状況だ。

福島県の浜通り地区には東京電力の原子力発電所2つと火力発電所1つがあった。隣接する広野、楢葉、富岡、大熊、双葉の5町では東電関係で約1万人の雇用があった。それらの人々が去ってしまい、原発事故で汚染され帰還困難区域(年20mSv以上)も点在している。この地域では人が去って地域社会が崩壊した。閑散とした町で、人が残った一部の建物が高圧放水できれいになる。「何の意味があるのだろう」。福島県富岡町に住む北村俊郎氏(69)は、その光景を見ると原発事故への怒りと虚しさを感じるという。

北村氏の家は帰還困難区域に含まれてしまい、除染は後回しだ。帰宅しても健康被害はないと思っているが、地域全部が避難しているため、インフラが麻痺状態で住むことはできない。北村氏は原発事故後に避難所生活を送った後で、今は同県須賀川市の一戸建て住宅を借りて住む。

北村氏はかつて日本原電に勤めており、「原発推進側」と社会では見なされかねない立場だ。しかし、かねてから原子力業界の閉鎖性には批判的だった。「原発問題では当事者が賛成・反対のレッテルをそれぞれ貼り、意見の違う人と対話を深めることがありませんでした。放射能問題でも、同じように安全か危険かの単純な二分論で問題を語る人が目立ち、議論が深まりません。政治家にもそうした考えの人が、かなり多くいます。とても残念なことです」。

北村氏は、個人的には1mSvまでの除染は必要がないと考えているが「すべての福島の人々が受け入れることは難しい」と話す。当然のことだが、子供を持つ母親などでは放射能に不安を抱き、完全除染を求める人が多いという。浜通り地区では多くの人は引っ越してしまい、地域社会の再建は日ごとに難しくなっている。

「基準を20mSvにして、住民に正確な情報を提供するという取り組みをすれば、復興ははやまったのではないでしょうか。もちろん反対はあったでしょうが、政府は困難を乗り越えて断行すべきでした。問題はここまでこじれなかったはずです」。

効果への疑問、福島に広がる

「時間が経つごとに解決は難しくなっていきますね」。福島県郡山市で学習塾を経営する佐藤順一さん(31)は指摘した。郡山市は浜通り地区から山を隔てた場所にあり、東日本大震災でも、地域社会全体が麻痺することはなかった。しかし原発事故後は不安が広がり、佐藤氏の塾でも、子供や父兄が動揺した。

佐藤さんは大学院で放射線の工業利用を学んだ。「人々の不安を取り除きたい」。そうした願いから佐藤さんは講演活動や解説パンフレットを自発的に続けた。(佐藤さんが、郡山市内での講演向けにつくったパンフレット「放射能について学ぼう」)人々の心は落ち着きを取り戻しつつあるが、除染へ見方はさまざまという。

「私は1mSvまでの除染は意味がないと考えます。それよりも福島県に蔓延する『放射線に対する必要以上の恐怖感』や『福島の農産物や福島県民に対する偏見・差別』を払拭する方が先でしょう。ところが除染の意味の乏しさを頭では理解できても、感情面で拒否反応を示す人はいます。仕方がありません」。

そして除染は、始まってしまった以上、今やめることはできないそうだ。「まだ行われていない地域の人が除染を待つ人が不公平感を持つためです」。

1mSvまでの除染について「効果がない」という疑問は、県民から県や自治体に頻繁に寄せられる。一方で「徹底的に除染してほしい」という声も根強い。ある福島県職員は次のように述べた。「いろいろな意見があります。住民や自治体は現時点で金銭的な負担はないし、除染で現地の一部の建設業者にお金は落ちます。このために、おかしいと思いながら、是正しようという声がなかなか強くなりません」。

示されない除染の全体像–費用28兆円の試算も

除染活動に環境省は12年度で3712億円、13年度(概算要求段階)で4978億円の予算を支出する。巨額の税支出について、国はその実現可能性、政策効果、またいつ終わるのか、総額など、除染事業に関わる論点を明確にしていない。さらに除染によって出た大量の汚染物質は、福島県内に設置が検討されている中間貯蔵施設に保管される予定だ。しかしその設置も現地の反対で設置の調整が難航している。

原則として除染費用は事故を起こした東電、特別地域では国が負担する。しかし東電は経営破綻状態にある以上、東電への請求は税金が肩代わりすることになる。

福島県飯館村の除染計画では、1mSvまでの除染で総費用3224億円が必要と推計している。反原発活動組織である原子力資料情報室は、これを根拠にして汚染物質の拡散場所を2万平方キロメートル(飯館村は約230平方キロ、福島県全域で約1万3000平方キロ)とした上で、除染だけで28兆円かかると試算した。

非現実的な金額だが、国が「行わない」範囲を明確に線引きしなければ、東電負担分も含めて、この支出が現実化しかねない状況だ。除染は国民全体の問題なのだ。

効果はあるのか?– 健康被害の可能性は極小
 
ところが除染の効果はあるのだろうか。「被災者が健康な生活を送る」ことが、除染の目的であるはずだ。ところが現状では、除染の遂行そのものが目的化して、本来の目的を達成させない奇妙な状況を産んでいる。2年で9000億円も除染のために支出される税金は、もっと有効な使い方があったはずだ。

福島の健康をめぐる朗報が繰り返される。世界保健機関(WHO)は今年3月に、除染を考慮しなくても福島では健康被害の増加の可能性は少ないと発表した。(GEPR解説記事「WHO、福島原発事故の健康被害を予想せず–リスク向上は警告」)福島県は今年2月「18歳以下の調査で甲状腺異常は発見されていない」、東大のチームは同3月に「食事などによる内部被曝はほぼゼロ」と発表した。原子放射線の影響に関する国連科学委員会は5月、健康リスクの可能性についてはないという予想を示した。(GEPR解説記事「「福島原発事故で差し迫った健康リスクはない」福島原発事故で国連機関が評価」)

原発事故から2年が経過したが、各種の調査で事故由来の健康被害は福島県と東日本では確認されていない。

一方で除染の遅れは、約16万人の避難者の帰還の遅れを生じさせている。原発事故に限定されないが、震災関連死は12年9月末時点で2303人にもなる。内訳は「避難所における生活の肉体的・精神的疲労」が約3割 、「避難所への移動中の疲労」が約2割
、「病院の機能停止による初期治療の遅れ」が約2割などだ。特に高齢者の健康被害が目立つ。(GEPR資料、水野義之京都女子大学教授「原発事故の現在の状況~避難者、健康、ICRP」)

こうした福島をめぐる政策には、海外で批判的な意見が広がる。心理的負担による避難者の健康被害は12年5月に全米原子力学会などで取り上げられた。そこでは「避難の長期化は適切ではない」という批判が出た。(GEPR解説記事「海外の論調から「放射能より避難が死をもたらす–福島原発事故で・カナダ紙」)

「福島のガンの増加の可能性は、仮にあるとして、0・0000から0・0002%の間。それなのに人々は避難を強制され、毎日表示されるガイガーカウンターの数値に囲まれ生活している。必要なことなのか」。

これは米国のロバート・ストーン監督のドキュメンタリー映画『パンドラの約束』の冒頭部分だ。ナレーションの後に原発と、福島の人々の姿、そして除染の光景が示される。今年1月に開催されたアメリカの映画祭サンダンス映画祭で注目を集めた。この映画は原子力の再評価を訴える立場だが、放射能への過度の恐怖に疑問を示すために福島で行われている政策を、批判的に紹介している。(GEPR解説記事「原子力への恐怖は正しいのか?–映画「パンドラの約束」」)

旧ソ連のチェルノブイリ事故で、事故被害者の救援活動にかかわった米国の骨髄移植の専門医であるロバート・ゲイル博士に、筆者は12年春の来日の際にインタビューをした。その活躍はゲイル氏の著書『チェルノブイリ』(岩波書店)に詳しい。

「福島では健康被害の可能性はほとんどない。モニタリングポストや、甲状腺の詳細な検査は、安心のための意味しかないだろう。日本の皆さんの判断次第だが、私は事故原発の周辺以外は帰宅し、健康診断も、放射線量の公表も、除染も、無理に行わなくていいと思う。日常生活に戻って大丈夫だ。そして詳しすぎる情報は、社会に混乱を招く可能性があることも忘れないでほしい。毎日放射線量を目にする生活は多くの人にストレスになるだろう」

チェルノブイリ事故では、低線量の放射線被ばくでの健康被害は観察されていない。それよりも移住などによる地域住民の精神的疲弊、地域経済の低迷、デマなどによる社会混乱のコストが目立ったという。この事実をゲイル博士は強調した。

海外の人々は日本人のように原発事故を体験したことによる精神的動揺を経験していない。それゆえに冷静に「放射線量に関心を向けすぎる日本の現状」について疑問を示している。そうした一連の指摘の通り、福島では事故そのものの直接の被害に加えて、その後の混乱によるさまざまな損害が発生している。

福島の除染「1ミリシーベルト目標」の見直しを(下)–パニックが政策決定に影響」に続く。