あえて高市発言を擁護する --- ヨハネス 山城

アゴラ

関西人が「目立ちたがり」とか「いらんことしい」とか、呼ぶタイプの人間がいる。図鑑を作るなら基準標本になるのは橋下はんしかないが、高市センセなんかもその典型やろ。松下のリコールリスト(政経塾御出身や)、月一失言オバハンとか地元では言われている。政調会長の器とはとても思えへんが、ワシとしては、どことなく憎めんようにも思う。

「原発事故で死亡者が出ている状況ではない」

はっきり言うが、これはおそらくは事実や。チェルノブイリと並ぶ史上最大級のレベル8の事故をおこしておきながら、関係者の努力によって、急性の放射線障害による死者が出なかったことは、とりあえず言祝いで良いことやと思う。


点検に行った作業員が津波で溺死したことや、避難ストレスなどによる震災関連死があったことをもって、「死者が出ている」というのは、フェアな議論ではないやろ。揚げ足とりと言われても仕方ない。

ワシはもともと、原発に関しては「懐疑派」やと自分で思っておる。経済を考えたら動かしたいのは山々やけど、リスクをマネジメントする方法(具体的には事故時の保証)がないし、近い将来それが出来るとは思えへんので、脱原発は仕方ない、という立場や。

言い方を変えると、死者は今のところ出ていないが損害は膨大やし、福島の廃炉作業が続く中、労働者の確保が、どんどん難しくなっている。いくら安い電気を作れても、原発は引き合わないビジネスやと思う。

そやけど、「今回のような大事故でも直接的な死亡者が出ていないぐらい、日本の技術は優秀であり、管理者の志気も高い。だから、これからも日本は原発でやっていくべきだ」という考え方を、暴論と排除する気にはならん。

諸外国の反原発運動で、「日本人でも管理しきれなかったのだから原発を管理できる国はない」、というような議論がおこっておる。ありがたい話や。歴代の技術者、労働者全員の勲章やと思ってもええのやないかな。

今後はもっとがんばろうという気持ちも、理解できんわけではない。

これと、ワシの考え方との違いは、日本の技術の優秀さを認めた上で、それをも上回るほどの大事故が今後発生するかどうかという点にある。再稼働推進派は、「それは無い」と言い、ワシら懐疑派は「大いにあり得ることや」と言う。それだけの違いや。

こうした議論をする時に、今回の福島の大事故でも直接的な放射線による死者は、今のところ出ていないという事実は、大事な叩き台や。これを主張することを妨害するのは、言論に対するアンフェアな介入ということになると思う。

もし、ワシが高市センセのアドバイザーやったら、

「所長以下の現場スタッフの英雄的努力と、地元の迅速な避難および長期間にわたる忍耐のおかげで、大事故にもかかわらず、死者は幸い今のところ出ていません」

と言わせていると思う。だいぶ印象がかわるやろ。そやけど、言っていることは、全く同じや。

今回の発言は、被害者、特に不自由な避難生活を強いられている人たちに対する配慮を欠いた、という問題は確かにある。ただ、それ以上の批難を浴びせるべきではないし、原発についての技術論や経済論をしているときには、ある種の立場の人が不愉快になるような発言が出てくるのは仕方がない思う。

それを封じてしまったら、建設的な話し合いをする上で大きな障害になり、言論の自由へを大いに毀損することになる。この視点でメディア関係者が文句を言い出さないのは、ワシとしては物足らんな。

お前ら、他人の言論の自由には興味はないんかい。とイヤミの一つも言いたくなるが、ナチス台頭の歴史なんぞを見ると、自分に関係ない自由や権利が奪われていくことに無関心やと、自分の自由や権利も危のうなってくる、というのが教訓やと思う。

高市センセにしても、安易に発言を撤回すべきやなかった。撤回しはったのは「死者が無かった」という事実の主張か(とすれば、死者はあったと認めたことになる)、「死者がなかったことをもって日本の原発は安全である」という安全性の主張か、単に「被害者への配慮が足らなかった」ということなのか、あいまいなままや。

政治家がキチンと自分の主張を口にして、間違っていたら撤回する。必要なら謝罪する。常に相手の主張を理解する努力を怠らず、自分の議論と比較して争点を提示していく。こういう面倒やが大事な行為に冷や水ばかりぶっかけていると、いずれこの国は、感情と利権でしか動かんようになると思うがのう。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト