失言防止には赤裸々な言葉にオブラートを / SNSを考える(その1) --- 岡本 裕明

アゴラ

「左翼のクソどもから罵声を浴びせられる集会に出席。感じるのは相手の知性の欠如に対する哀れみ」と復興庁の幹部が市民団体を中傷するツイッター投稿した「事件」で副大臣が福島県で険しい顔つきの中、深々と頭を下げているシーンが印象的でした。


この幹部氏、ハンドルネームで投稿をしていたようですが、自己紹介で国家公務員としていて、素性はバレバレ状態だったようです。そして上記のつぶやきだったわけです。正直、この文章には幹部氏の気持ちが100%出てしまっている素っ裸の状態でツィッターの本来の目的からすれば正しいのかもしれません。また、ハンドルネームで自分の気持ちを書きなぐるというのは積もり積もったストレスをぶつけるところが欲しかった、そしてそれは過半数のサポートを求めるのではなく、自分の境地を自分のお仲間内とシェアしたかったのでしょう。

ツィッターやフェイスブック、ブログなどソーシャルメディアを通じた「その一言」が命取りになることはよくあります。橋下市長も過激発言が目につきます。それは素顔の自己主張の何ものでもないのですが、なんでも素顔でよいのか、という議論が今後増えてくるかもしれません。

ソーシャルメディアがない時代には人々の不平不満自己主張は夕方5時からの居酒屋が主戦場でした。あるいは、奥様方の百貨店の上層階のレストランだったかもしれません。その昔は買い物かごを下げた奥様たちの井戸端会議でした。つまり、非常に限られた範囲内での呟き、不平不満であってそこではどんな素顔を見せても「そうよねぇ」という同調が取れました。なぜならば、完全なるお仲間内だからです。敵はそのグループには入れないという不文律が明白に設定されていたからです。

ところが、ソーシャルメディアになるとそういうわけにはいきません。敵がその足を引っ張るために虎視眈々とそのチャンスを狙っているのです。それが到来すればここぞとばかり一斉攻撃するのですが、この場合、攻撃する側にも日頃のストレス発散の気持ちがあったりします。これが炎上となり、有名人ならばさらに大手メディアに取り上げられ、「大火災」が発生してしまうのであります。

となれば、ソーシャルメディアに必要なのは気持ちは素っ裸でも言葉には衣をつける、ということではないでしょうか?

例えば上述の幹部氏のつぶやきの「クソども」というのは国家公務員の発する言葉として品位を著しく逸脱しています。こういう言葉が出てくること自体にその人の教育水準が見えてしまうのです。つまり、「知性の欠如に対する哀れみ」とはこの幹部氏そのものことになってしまうのです。ならば、このつぶやきはもう少し、理性をもって、

「一部の団体や人から厳しい言葉を頂戴する集会に出席。人それぞれ様々な考え方がある中で当方の主張を理解してもらえず至極残念」ぐらいにとどめておくべきだったのでしょう。

これではインパクトがないじゃないか、と多くの方はおっしゃると思います。ですが、繰り返しますが、だれでも閲覧できるソーシャルメディアでは言葉の衣装を着るべきなのです。どうしても裸になりたければ身内=社内やお仲間内のリアルの世界で会話にとどめ、絶対に紙や記憶媒体に残してはいけないのです。

私は残せない内容のものはすべて電話やミーティングでやり取りしています。E-mailは証拠が残るのです。これぐらいの気回しは一定のポジション以上の人のみならず、ソーシャルメディアを行う方のマナーとして心がけていくべきではないでしょうか?

「SNSを考える」は明日も続けます。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年6月19日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。