「公共教育」の目的を、今こそ明確にしよう

松本 徹三

楠木秀憲さんは6月16日付のアゴラの記事で「公共教育と私学の役割の峻別」について語っておられる。突き詰めれば「子供の興味の対象とかくれた才能は何かを見つけ出す事は必要でも、公共教育はそのそれぞれに対応する教育は担えない」というのが論旨だ。全くその通りだと思うが、ここでは更に突っ込んで「それでは、公共教育の目的は何なのか」を考えて見たい。


教育について考える場合、「国の視点」と「一般市民の視点」を分けて考える必要がある。この記事のテーマは前者のほうであるが、議論が片手落ちにならないように、先ずは後者のほうから話を始めたい。

私自身を含め、一般市民の教育に関する関心は極めて高く、「少なくとも自分の子供達には人並みの教育を受けさせたい」と考え、その為に家計の相当部分を切り詰めて、子供達の教育に関係する費用に回すことを厭わない人達は多い。

「人並み」という言葉を狭くとらえれば、「その為に義務教育があり、格安な国公立の高校や大学があるではないか」という事で終わってしまうわけだが、それでは十分でないと多くの人達が考えているからこそ、「私学」というものが生まれ、また、幅広い分野で「専門学校」や「教室」「道場」「塾」といったものが作られているわけだ。

一般市民が教育に何を求めているかは明快だ。「現在の社会に生きて、人並みかそれ以上の生活水準を維持するために必要な常識とスキルを得ること」が、その中心だろう。それに尽きると言っても良いかもしれない(「自分の好きな事で才能を磨き、出来ればそれで生活を立てる」事を秘かに狙う人達も多いが、楠木さんも指摘されているように、それを公共教育が担う事は求められてはいない)。

良い生活水準を勝ち得ようとすれば、高い給与を払ってくれて、先々までつぶれそうにない企業や、国や地方公共団体に就職することが一番確実な方法である事は、多くの人が考えることだ。その為に、これらの企業や団体から高く評価されている大学を卒業することが、総じて若い人達やその親達の目標になっている。だからこそ、「塾」が繁盛し、「受験」をめぐる悲喜劇が毎年繰り返されているのだ。

多くの若者達が憧れる大手企業の多くは、大学教育には殆ど期待していないのに、「有名大学に入ったのなら、それなりに頭もよく忍耐力もあるのだろう」という観点から、或る程度出身大学に拘る。要するに、「企業にとっての大学の価値」を「スクリーニング機能」とみているケースが多い。

(本当は、各企業が各大学に「自分達はこのような能力を持った人材を即戦力として使いたいので、こういう教育をしてほしい」とどんどん注文を付け、自分達の独断と偏見に基づくものでも構わないから、それぞれの観点から各大学の評点をつけるぐらいの事までしてもよいと思うのだが、何故かそういう事は行われていない。この為に、有名校はぬるま湯につかり、無名校や地方の大学は存続の瀬戸際に立たされ続けている。この事については、国公立も私大も同じ事だ)

さて、一般市民の視点からの話はこの程度にして、今回のテーマである公共教育のあり方についての議論に移りたい。

私は、公共教育の目標は下記の三点に絞られると思う。

1. 全ての国民に、一定の生活水準を維持できるに足るだけの「常識とスキル」を身につけさせる事。

2. 国力(政治、経済、文化、技術、産業などの総合力)を牽引する高い能力を持った人材を発掘し、育成する事。

3. 全ての国民が「民主主義体制の良き構成員」となり得るよう、自国の「歴史」と「現在の法・社会制度」について、正しい認識を持てるようにする事。

1 については、既にこの記事の前半で述べているので、それ以上は議論しない。また、2 については、機会を改めて論じたいので、今回は、3 について集中的に議論したい。この事については、これ迄あまり深い議論がなされていないように思うので、これを契機にもっと議論が深まればよいと思う。

そもそも、民主主義体制というものは、国民の知的な成熟度如何によって、その成否が大きく変わってくる。国民が利己的で短絡的な判断しか出来ない場合は、政治家もこれに迎合して衆愚政治に陥り、遂には国政を破綻させる危険性すら生まれる。

また、国民に「国際社会の良き構成員になる」事の必要性に対する認識が欠けていれば、多くの国際紛争を招き、結果として、これまた国を破滅させるに至る危険性を生み出す(残念ながら、過去の日本はこの誤りを犯した)。

かつての絶対王政の時代では、君主の質が国の運命を決めた。従って、王となるべき人を「良き王」にする為に、多くの帝王教育がなされた。「儒教」等はその最たるものである。現在の民主主義体制では、国民の質が国の運命を決める。故に、国が、若い国民を「良き国民」にする為の様々な教育を行うべきは当然の事である。

全ての教育を通じて、若い人達が自分を「一人の人間」として意識し、人間とは何かを考え、自分は「一人の人間」としてどのように生きれば良いのかを考えさせる事は必須だ。これは「人文科学」の範疇に入る。カリキュラムの中に「美術」「音楽」が入っているのもこれ故だろう。「国語」にも一部その要素が入っている。本当は「哲学」や「宗教」、「心理学」や「倫理学」などについても、若干の手掛かりは与えて然るべきだ。

しかし、それと同時に、人間は、自分が所属している「集団」「社会」「国」「人類」の一員として毎日を生きている。この事を理解させ、その各々がどうあるべきか、自分はその中でどういう役割を果たすべきかを考えさせる事も必須だ。これは「社会科学」の範疇に入る。現在のカリキュラムでは、「社会」「歴史」「地理」等がこの目的の為にあると考えるが、上記の3の目的に資するにはあまりに弱体だと言わざるを得ないだろう。

因に、現在のカリキュラムの中核をなしている「数学(算数)」と「理科(物理、化学、生物、地学)」は「自然科学」に対応するものであり、これによって、現在のカリキュラムの中には、三つの「科学」がバランスよく含まれていると考えられている。しかし、本当にそうだろうか? 理工系や、経済学、統計学等を志している人達以外には、「微積分」等は無用の長物のように私には思えるのだが。

さて、今、公共教育のあり方を根底から考え直そうとするなら、もう一度原点に戻って、前述の「公共教育の目的の1と2と3」に照らして、現在の小、中、高のカリキュラムを見直す必要がある。

文科省の考えの如何に関わらず、現実問題としては、「英」「数」「国」が「受験」における「競争力」を決める鍵であり、従って、多くの時間がこれに割かれている。これは前述の1と2のみに照らすなら、一応妥当だと評価してよいだろう。因に、私は、「英語」と並んで「コンピューター・リテラシー」にもっと力を入れるべきという論者だが、これも1と2の観点から言っている事であり、今日のテーマとは次元の異なる議論だ。

問題は、こういう次元の事ではなく、「3の目的はどうすれば達成できるか」という事だ。これは極めて難しく、それ故、これ迄も全く手が付けられていない。「どう教えれば良いか」について、異なった考えを持つ人達の意見が先鋭的に対立し、白黒がつけられなかったからに違いないと私は思っている。

一方に、終戦直後から現在に至る迄、綿々と続いている左翼的な人達がいる。「進歩的文化人」と呼ばれる人達や「護憲派」と呼ばれる人達はこれに属すると考えてよいだろう。空想的な「平和主義者」もそうだし、先鋭的な「環境保護派」の多くもそうだ。最近では「反原発派」も心情的にこの人達に近い。この人達は、総じて「弱者」の側に立とうとし、「金融資本家」や「市場原理主義者」を憎むが、経済成長を促し、財政破綻を防ぐ方策については、具体案を持たない事が多い。

これに真っ向から対立する右派的な人達は、主として年配の男性で、昔を懐かしみ、現在の世相をひたすら嘆く傾向がある。戦後しばらくはじっと我慢していたが、今となっては、「戦前の日本」が全否定さえている現状には憤懣やるかたなく、隣国の政府に「靖国参拝」等を批判されるのも我慢がならない。また、「戦後の教育が日教組などの左翼勢力によってリードされてきた」事に強い危機意識を持っているので、「教科書問題」等については極めて神経質だ。注目すべきは、長い間日本の政治と経済を動かしてきた「自民党の政治家」「高級官僚」「財界のリーダー達」「地方の有力者達」には、基本的にグループに属する人達が多いという事だ。

さて、これからの日本の民主主義体制を担い、平和を守り、経済を活性化させていく立役者である若い人達には、「正確で偏らない情報」に基づいて、「公平で正しい判断」をする能力を身につけてもらう事が、どうしても必要だ。

若い人達が、「異なった環境下にいる人達(隣国の人達も含む)の立場も考え、それぞれの人の立場によって微妙に異なる『物事の複雑な背景』を理解しようとする忍耐心」を涵養(かんよう)する機会も与えられないままに、短絡的に「善悪」を決め付けたり、単純な煽動に乗って過激な行動に走ったりすると、国益が致命的に害される恐れがある。

これを防ぐ為には、何を勉強して貰えばよいのかと言えば、一にも「歴史」、二にも「歴史」だと私は思う。そして、その中でも特に重点的に学ばれるべきは、何よりも「現代史」であり、それも、日本人の固有の視点からだけではなく、隣国や世界の視点からも評価した「世界史」の中の「日本史」であるべきだ。

抽象的な議論で「正否」や「善悪」を判断させようとするよりは、歴史の事実から、それがもたらした結果を客観的に評価し、良くない結果が生まれたのなら、何をすればそのような事態を防げたのかを考えて貰うのが、何よりも大切な事だ。

歴史はドラマであるから、多くの人達が興味を持くれる一方で、まぎれもなく「現実に起きた」事を語っているのだから、何人といえども、否応なくそれを直視せざるを得ない。歴史的人物の評価についても、色々な異なった見方があり、単純に「善悪」は決め難い事は、既に多くの人達がテレビドラマ等で体験済みだから、「多面的にものを見る事の重要性」についても、理解はされ易いだろう。

「結果」についての「評価」は人によって異なり、特に前述のように際立った対比を見せる「左派」と「右派」の人達の見解の相違は、全く埋める事が出来ないだろう(従って、歴史を記述する教科書の書き方を決めるにあたっても、たちまち暗礁に乗り上げてしまうだろう)。しかし、「事実関係」については、衆人監視の中でそれを極端に歪める事は不可能だから、誰もが認めざるを得ない「事実」のみを、先ずは淡々と記述する事は可能だろう。

そして、そのような「事実」をもたらした「原因」の「分析」や「結果」についての「評価」については、異なった意見があれば、必ず公平に両論を併記し、教室ではそれについて大いに議論させて、その内容を広く公開すべきだ。このようにすれば、隣国の中・韓政府といえども、日本の誰かの発言を一方的に「妄言」等と言って批判する事は困難となり、逆に、「彼等自身が自国民に教えているやり方が、如何に一方的で乱暴であるか」を認識させる事になろう。

中学や高校、更には大学の教養過程では、この為に多くの時間を割くべきだ。「一方的な講義」に該当する部分には、プロが丹念に作り込んだビデオを大幅に取り入れ、現場の教員は、学生同士の議論のモデレーターとして機能すべきだ。これを実現する為には、教える側も学ぶ側も、膨大な時間と労力を費やす事になろうが、日本を成熟した民主主義国にする為にはどうしても必要なコストなのだから、これを惜しんではならない。