レオス・カラックス監督「ホーリー・モーターズ」。感想、続編。
殺人鬼が逆にのど笛を刺され、瀕死に陥る。
過ちを犯した美しい姪に看取られ、老人が事切れる。
どこかで、大勢に、見られている。
すぐに立ち上がり、次の芝居へと移動する。
これは、見えない映画であり、見る映画。
かつてカメラは人より大きかったが、小さくなって、もう見えなくなった、というセリフがかぶさる。カメラは、壁に、天井に、身の回りに、埋め込まれたのだ。それらが発する情報を、偏在する眼が凝視する。カメラと観客、どちらの姿も、ない。でも確実に、ある。
これは現実だ。虚構とは既に肉体関係にある。
恋人とカフェで語らう。電車でぼんやり窓の外を眺める。自室でパソコンをいじる。
みな、見られている。撮られている。アップされている。ソーシャルで共有されている。24時間、365日。街頭の監視カメラへの不安は失せた。へちゃっらだ。見られることより、見ることの欲求が、押さえられない。むしろ。
ボストンのテロ犯人が街を歩くシーンをコマ送りで地球上に共有させたカメラ映像は、安心を求める地域住民の願いを運ぶ以上に、次のスペクタクルを予期させるエンタテイメントの刺客だった。
ならば、ホーリー・モーターズの主役が演ずる仕組まれたフィクションよりも、地上のあらゆる場所で紡がれる現実の営みをつなぐほうが、緊迫した作品たり得る。撮ることと、撮られることを意図したいくつかの虚構よりも、意図せずに撮り、無意識に撮られた無数の現実のほうが、豊かな映像たり得る。
街中に4Kカメラがばらまかれる。
全てが高精細で記録され、編集され、再生される。
全ての生きる者が役者だ。全ての空間がステージだ。全ての行為が映画だ。編集された結果が映画なのではない。編集され得る連結したビッグデータの映像群が映画と呼ばれる。
むろん街の眼は埋め込まれたセンサーカメラばかりではない。
ギラついた意志を持つカメラが、街をうごめく。
ウェアラブルなカメラが撮り、バーチャルなサーバにアップし、ウェアラブルなチップが受信し続ける。
今から撮る、その意思表示は、かつてシャッター音が表現した。カシャッという、ぶざまな爆発音。
だが、撮り続ける、その意思表示はもう要らない。ビデオの記録ボタンは、一度押せば永遠が手に入る。ユビキタスは、いつでも・どこでも、ではない。いつも・どこも、なのだ。シャッター音は、いつでも、どこでも、撮られる、その合図。撮り続けるビデオは、いつも、どこも、撮られ続ける、その覚悟。
映画のラストシーン。おびただしい数のリムジンが、ホーリー・モーターズに帰ってくる。
それぞれのリムジンが、役者を運び、演じさせ、撮らせ、見させてきた。
仕事を終え、リムジン同士が語らい合う。
「人はもう、見える機械を望まない」
「モーターを欲しがらない」
そうだ。これが主題だ。
人より大きいカメラは、見えなくなる、そういうみんなの望みをかなえた。体より大きいスクリーンは、メガネの中に埋め込まれる。モーターを欲しがらない。
モーターは革命だった。動力革命を支えた。だがどんどん小さく、静かになっていった。ウォークマンやビデオカメラに埋め込まれ、見えなくなり、秘かになり、主張しなくなった。コンピュータも同じだ、とネグポン師匠は言った。小さくなり、バラバラになり、静かになり、埋め込まれていく。そうなりつつある。
モーターはスターだった。通天閣は長く「日立モートル」という宣伝だった。ぼくが生まれた年の「悪名」、八尾の朝吉っつぁんの相方は、「モートルの貞」ではないか。だがその田宮二郎は、タイムショックを経て、猟銃自殺だ。通天閣の宣伝はその後、日立エアコン、日立コンピュータ、日立ハイビジョンテレビ、日立ITソリューションと続き、形が消えていく。
なぜ、かくも多くのリムジンがモーターズに集まるのか。
見せたい演者が大勢いるからだ。
見たい観客が大勢いるからだ。
みんなが見せて、みんなが見る。
その時が来た。わかってはいたんだが、時が来た。それを、他でもない、カラックスが描いてくれた。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年6月27日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。