実際ウェアラブルは15年前と変わっていない --- 中村 伊知哉

アゴラ


この写真はグーグルグラスではありません。15年前、ぼくがMIT MediaLabにいたころ。24時間ウェアラブル・コンピュータを着用している研究員が何人もいました。インタフェースはメガネで、コンピュータへのインプットは手のひらのテンキー。こうしたウェアラブルやユビキタスは、デジタルに「いつも」オンになるもので、「いつでも」オンになれる「モバイル」とは一線を画すものです。

だけど、人が慣れるのには時間がかかります。この研究員も、ネットでアクセスされると肩に装着した超小型サーバが温まってくるのが一番の快感というヘンな人だったのです。いくらMediaLabでも、ヘンなひと扱いだったのです。全ての人がそうなるには時間がかかります。

だけど、ここに来てようやくグーグルグラスが注目されるのをみると、えっ、まだだったの? という感じ。確かに、まだですよね。15年たってるのに。


ここにぼくが99年4月に書いた文章があります。ニューメディア誌に連載していたコラムです。「ウェアラブルをブームにする気?」の巻から抜粋します。


コンピュータの埋め込みってことで言えば、クルマだけじゃなくて、エアコンも、洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫も、炊飯器も、身の回りにある製品は今どんどんコンピュータ化されています。これからは、家具、じゅうたん、カベ、道路、そして町ぜんたいにチップが埋め込まれていきます。さらにそれらがネットワー クでつながれ、通信端末となっていくのです。

しかもコンピュータは、人の意思や気持ちを理解する方向に進化します。だから、人とクルマ、人と冷蔵庫、人と家、という関係の広がりは、人が指令する相手が広がっていくだけでなく、机が私にその日のスケジュールを語りかけ、クルマが私にとっておきの場所を教えてくれるようになります。さらに、モノ同士がコミュニケートをしはじめて、朝、照明器具がソファに電球が切れそうだとつぶやき、そのビットを靴が蓄積し、帰り道、スーパーを歩いていると、私のピアス はあの電球を買えと私にささやくのです。ナント暮らしやすくなることでしょうか。

そして、その現実の姿として登場したのが「ウェアラブル・コンピュータ」です。ウェアラブルというのは文字どおり、身につけることができるということで、服、帽子、靴、メガネ、アクセサリ、といったものをコンピュータにしましょうという動きです。ずいぶん小型になったモバイルコンピュータをさらに分解して、ディスプレイや入力装置を衣服や肉体にくっつけてしまうという感じですね。

これは私のいるMITメディアラボあたりが中心になって、2年ほど前からにぎやかなテーマになってきたんですが、日本でも98年、日本IBMや東芝などが試作品を発表したり、新聞社がシンポジウムを開催したりして、実用化段階に突入ということでやおら注目を集めるようになりました。サイバーパンク上陸というわけです。

ウェアラブル・コンピュータを身につけた人を観察してみましょう。メガネ型のディスプレイやヘッドホンが表示装置になっています。かつてバーチャル・リアリティで話題になったゴーグル型のヘッドマウント・ディスプレイをつけている人もいます。入力装置には、音声入力、手のひらにあるボタン式装置、衣服に縫い込んだキーパッド、といったものがあります。

視線を感じとって情報をコンピュータに入力するメガネなんてものもあります。視覚というのは、脳にインプットするだけじゃなくて、目からアウトプットする機能もあったんですね。表情やジェスチャーをデジタル信号に変換して相手に伝えるという方法も研究されています。さらに、体温や心拍を服が感知して、ビットとしてインプットする方式もあります。

つまり、ウェアラブル・コンピュータは、人の意思や表現や肉体をコンピュータがどう認識するかという機能に重点を置いているんです。単純に携帯PCを分解したものとは性格が違うんです。人をコンピュータに近づけるというより、コンピュータを人に溶け込ませようとしてるんですね。そうですね、道具なんだから、当然の姿勢ですね。

使い方も、普通のパソコンとは違います。パソコンは、使う時、さあ使うぞとエリをただして正面に座り、スイッチをオンして、OSがぐもぐもと立ち上がるのをかしこまってお待ちするわけです。が、ウェアラブルのスイッチはいつもオン。歩きながら、作業しながら、考えながら、その時々の活動や思考を補助するという使い方だからです。パソコンを使う時はそれが活動の全てであり、「ながら族」になるのはむつかしい。だけどウェアラブルは、「ながら」のために生ま れてきたわけですね。

当面は特殊用途のためのものになるでしょう。工場や倉庫での作業だとか、高齢者の健康管理だとか。ただアプリケーションはいくらでも広がります。技術的には。難しいのは、コンピュータがこっちに溶け込んでくるという大変な事態に、人はいつごろ慣れるのかということでしょう。メディアラボにはもう何年も身 につけているというサイバーパンクな兄ちゃんがいますけど、みんながそれをヘンなヤツと思わなくなるまでにはかなり学習期間が要ります。


偉そうにレポートしておりますが、どうですか、全く今の状況のまんまで、進歩していませんよね。このころ、やっとブロードバンド、といってもADSLが解禁となり、iModeが登場したころですよ。アメリカにはまだモバイル・ネットは来ていません。デスクトップからようやくラップトップに転換されはじめたころ。ぼくがMITにVAIOを持って行ったらスゲーって人だかりができた、ニッポン最後のいい時代。

それから、モバイルが「いつでも」デジタルを実現しました。デバイスは小型化し、スマホが現れました。ブロードバンドが普及して、クラウドが現れ、オンラインで全ての仕事がこなせるようになって、アトム→ビットが完成しました。

15年たって、今度やっとビット→アトムが始まります。人がビットをまとうウェアラブルと、環境がビットを装着するユビキタスです。しかし、慣れる、つまりそんなぼくらがぼくらの姿をヘンだと思わなくなるのはまだこれから。まだ時間がかかりますよね。

カッコいいウェアラブル。15年たっても、それがポイントです。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年7月28日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。