現在公開中のアニメーション映画『風立ちぬ』(監督:宮崎駿)のキャッチコピーは「生きねば」だそうだ。このコピーを念頭におき、あれこれと思いを巡らしているうちに、三島由紀夫の代表作『金閣寺』を思い出した。
吃音の溝口という青年が金閣寺の美にひかれて、というより、自分の頭の中に形作った金閣寺という美の観念にひかれ、この観念を永遠化するために現実の金閣寺に放火する物語である。クライマックスの場面、溝口少年は自死を放棄し、焼け落ちる金閣寺から脱出する。赤く燃え盛る金閣寺を遠目に、こう物語は締めくくられる。「別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」……
さて『金閣寺』上梓後、三島由紀夫は小林秀雄と対談しているが(「美のかたち」)、そこで小林は明らかに三島の小説構成の根本を問いただすように、ドストエフスキーの『罪と罰』を引きあいに出しながら、こんなコメントを口にしている。
曰く、『罪と罰』では主人公のラスコーリニコフが殺人を犯した後が主たるプロットを占めているが、君の場合は放火を犯す前までの話だ。だから主人公は、自分の内にある美のイメージを好き勝手に夢想することができる。ということは、放火の後に待ち受ける現実との対決を主人公は回避できるということだ。現実の世界では主人公は、美の観念の外側に出ざるをえない。そしてまた、社会の道徳規範や放火犯というレッテルと向き合うことから逃げられない。けれども、そうした世間のルールがいかに夢想家からすれば愚かしいものであるにせよ、生きるとは、その愚かしさを無視することではないのだ。そう小林は言外に述べているように見える。小説とは、あるいはそもそも人間の真の行動は、事がなされた後から始まる……。
であれば、『風立ちぬ』の主人公が映画のようやく最後に至って突き当たる「生きねば」とは、何を成したことに対する、もしくは、何をしてしまった「後」での「生きねば」なのだろうか。残念ながら、この「何」を『風立ちぬ』は徹底的に欠いている。
『風立ちぬ』で宮崎駿は技術者の「戦後」を描かなかった。私はここで戦後という言葉を、第二次世界大戦後という特定の時代に限定しない形で使おうと思う。それは時代を指す言葉である以上に、何か人間の自覚のようなものを指し示す概念なのだ。
つまり、殺人兵器──『風立ちぬ』の場合、いうまでもなく堀越次郎が設計したゼロ戦である──を作ってしまったという事実、そしてそれによって幾多の兵士が死んでしまったという事実、あるいはその事実に自らが加担したという事実と向き合い、その業や罪深さに蝕まれつつ、それでも「生きねば」ならぬのが「戦後」である。単に生きて、年をとるのではない。生きねばならぬとはここでは、理想を信じ殺人を犯したラスコーリニコフの「その後」に通ずる。そんなものは宮崎駿のモチーフではないよ、というのなら、『もののけ姫』を想起しよう。主人公アシタカの冒険は、タタリ神を殺したがために自らも死に至る化物となる運命を自覚することから始まっているではないか。
おそらく上のような意味において、とりわけ3・11以降、新たな戦後が生じているし、また生じねばならないだろう。原子力発電という夢に人生を賭けた技術者たち、国のエネルギー政策を賭けた官僚たち、そこに経済振興と地域振興という都合のいい夢を見た為政者たちが、決して覚めることのない悪夢と対峙すべき時、そこから、21世紀を生きる我らの「戦後」も始まるのではないだろうか。
しかし、再び『風立ちぬ』に立ち返ってみれば、ここでは戦後はおろか戦中でさえ主たる舞台とはなっていない。あくまでエリート技術者たちの、洗練された小奇麗な努力だけが淡々と描かれる。そして最後に、飛行機に乗った兵士たちは誰も帰って来なかったという諦念が、わずかに主人公の口から洩れるだけだ。
力を尽くして生きる……。美しい言葉である。言葉としては、だが曖昧にも程がある。職人は兵士ではなかった。彼らは人を殺しはしなかった。彼ら技術者は、純粋にテクノロジーを追究しただけだった。
こういう素朴さのイデオロギーに騙される人間など、もはやいまい。大陸で中国人や朝鮮人を惨殺した日本人も、原爆を落としたアメリカの飛行士たちも、原子力プラント建設に関わったテクノクラートたちも、力を尽くして生きたのである。生きるとは、かくも愚かなことだ。
そして、そうした愚かしい行為を反復する人間たちを、いわば「怒りに満ちた共感」によって描いた大作こそ『風の谷のナウシカ』だった。ついでに言うなら、(アニメではない漫画版の)『風の谷のナウシカ』は徹底して、いわゆる「火の七日間」によって何もかも失われたポスト・ユートピア的な「戦後」の世界を生きねばならない人間たちを描いた物語だったはずだ。
しかしこんなことは、うんざりするほどの人間の愚かさを見てきた宮崎駿にとっては、何もかも承知の話なのかもしれない。『風立ちぬ』では、主人公の夢の中でも、また現実においても、幾度も飛行機は墜落する。というよりこの映画自体、まさに少年時代の主人公が、自らが乗る小さな飛行機が雲間から出てくる巨大飛行船の爆撃を受けて墜落する夢から始まっているのだ。
この、寄せては返す波のように、主人公の人生行路において反復される夢の意味とは何だろうか。飛行機といえば当時は軍用機を作るしかなかったという宮崎駿のコメントをそのまま受け止めるならば、いずれ墜落する飛行機を作るしかないではないかという狂気じみた諦念から、技術者としての堀越少年の人生はスタートしたのかもしれない。それは挫折と失敗の予感から逃れられない悪夢であり、堀越次郎はこの悪夢を生きる以外に、何もしていない。
彼には「戦後」はなかった、あるいはこうも言えるだろう、彼には「戦後」の予感に満ちた「戦前」しかなかった。どう言おうと同じことだ。それは少年溝口の美の観念に似て、ユーモアや諧謔を欠いている。懸命に、そして泥臭くもしたたかに生きている人間は、どこかその事実そのものに対して笑いをこらえることができないものだ。ああ人生ってやつはクソッタレだよな、と。そう考えるならば、宮崎駿が描いた最も魅力的な人間の一人が『風の谷のナウシカ』のクロトワである所以が諒解されるだろう。クロトワ的な人物はどこに消えたのだろう。
『風立ちぬ』の堀越次郎は、「人間」ではない。機械の美と魔に見いだされた人間が、我知らず機械になってゆく一途さだけが、そこにある。ヒロインとの軽井沢での出会いや結婚のエピソードなど、添え物に過ぎない。
入谷 秀一
大阪大学招聘研究員・兼・非常勤講師