「誠実な人」と「不誠実な人」

松本 徹三

先回の記事で「保守と革新」「タカとハト」「右派と左派」等の二者択一のレッテル貼りが如何に意味のないものであるかを論じたが、「分かりやすい区別で人間や人間のグループを評価したい」という多くの人たちの欲求は無視出来ない。

「良い人と悪い人」「賢い人と馬鹿な人」「強い人と弱い人」等は分かりやすい区別であるが、主観的な決め方しか出来ないので、公正を期するのは難しい。


そこで、私は、「誠実な人」と「不誠実な人」という切り口で人を区別する事を提唱したい。そして、「誠実な人」とは「真実を知ろうとする事に真摯であり、そうして知り得た『真実』と、筋の通った『論理』に基づいて全てを考え、それをベースにして他の人にも語りかける人」と定義したい。逆に「不誠実な人」とは、「事実関係を確認したり、自ら論理立てて考えたりせずに、盲目的に何かを信じ、他の人もそれに賛同するように声高に語りかける」人だ。

このように考えると、世の中には如何に「不誠実な人」が多く、「誠実な人」は少ないかが分かる。また、「不誠実な人」の多くは、単に怠惰であったり、早とちりであったりするだけだが、中には「分かっていながら平気で嘘をつく人」や「自分の権威を利用して、その嘘を他の人にも信じさせようとする人」もいる。こういう人になると、「不誠実な人」である事を超えて、明確に「悪者」である。

残念ながら、政治家の多くは「不誠実な人」であるようだ。しかし、私はこの事には同情的だ。政治家は選挙で勝たねばならず、その為には選挙民の耳に快い事を言わねばならず、その為には「自分たちに不都合な真実」には出来る限り触れたくないのが当然だからだ。

しかしながら、学者やジャーナリストが「不誠実」である事は、私には許せない。彼等の仕事は本来「真実を求める事」である筈だし、人々もそう見ているからだ。本来は選挙民を「不正確で片手落ちな政治トーク」から守るのが彼等の仕事なのに、その役割を果たせていないのなら、彼等は自らを深く恥じねばならないし、もしも何らかの理由で、意図的に選挙民の耳目を真実から遠ざけようとしているのなら、とんでもない「裏切り者」だという事になる。

さて、このように考えると、「誠実でない人」即ち「真摯に真実を知ろうとしない人」は、「我々に害を与える可能性の高い人」であるとは言えるだろうが、逆に「誠実である人」の全てが「我々に益を与える人」かといえば、必ずしもそうとも言い切れないだろう。仮に一つの事実が明らかになったとしても、それをどう評価するか、「そのままにするのか」或いは「変えようとするのか」は、それぞれの人の「価値観」と「意志」次第だからだ。「賢い人」はこの評価を間違わず、「強い人」はそれを実行してくれるが、そこまで行かずに止まってしまう人も多い。

「自分たちにとって、何が益になり何が害になるか」の判断(政治的判断)が、それぞれの人によって変わるのは当然だ。これ故に人々は党派に分かれ、お互いに口角泡を飛ばして議論する。しかし、事実関係については、「一つの真実」をお互いに確認し合えるよう努力し、一旦それが確認出来たら、それをお互いに最大限に尊重してほしい。そして、お互いに絶対に嘘はつかないでほしい。それさえ保証してくれれば、口角泡を飛ばして議論してくれる事はとても良い事だ。これがあってこそはじめて「民主主義」が機能しているとも言えるだろう。

ところが、実際にはそうなっていない事こそが、現代を生きる我々に取っての最大の問題なのだ。つまり、「不誠実な人たち」のおかげで、「民主主義」が正しく機能していないのだ。

例えば、原発問題なら、明快に証明できている「一つの真実」については、全員がこれを認めた上で議論し、「真実がはっきりしないもの」或いは「何が起きるか予測が出来ないもの」については、一定の幅を持った「推測値」をベースにして議論をすべきなのだが、現実には、「真実の追究」には始めから興味を持たない「不誠実な人たち」が、自分たちの独断と偏見による思い込みを前面に押し出して、意見の異なる人たちを問答無用で「悪者」呼ばわりにする傾向が強い。相手を「悪者」にするのに役立つなら、平気で嘘もつく。

不幸にして日本では、このような事が過去に何度も起こっている。志士たちが活躍した幕末については、その良い面だけを強調する話が多いが、実際には誤解や見落としによる状況判断の誤りは日常茶飯事で、そのような誤った判断をベースに、異なった考えを持つ人たちを「悪者」と決め付けて襲撃し、多くの命を奪うという事件が頻発している。

大正、昭和の時代になると、軍部や政治家は早い時点から真実を国民の目から遠ざけるよう画策し、更には、真実とは正反対に近い「大本営発表」を繰り返して、国民の大多数が死に絶えるに至る直前まで戦争を継続しようとした。本来ならこの嘘を暴いて国民を正しい道へと導かねばならなかった筈の学者やジャーナリストは、我が身可愛さの為か、積極的に軍部に協力した。特にジャーナリストは、自社の営利の為に国民に迎合し、却ってその熱狂を煽ったのだ。

戦争が終わると、戦争中は唯々諾々と軍部に協力してきた多くの学者たちは、今度は「進歩的文化人」という不可思議な人たちへと変身した。この人たちは、何故かソ連や中国(当時は中共と呼んだ)を「人類の理想を実現しようとしている正義の国」とほぼ盲目的に信じ、米国や西欧諸国、それに当時の日本自身を「それを妨害しようとしている悪い国」として糾弾した。

彼等は、一流の学者として世間で認められている人たちであったにもかかわらず、「真実の追究」に時間と情熱をかけた形跡は殆ど見られず、先入観の固まりに基づく独断的な議論を臆面もなく展開していた。驚くべき事に、当時名が売れていた殆どの学者、例えば、大内兵衛、清水幾太郎、蔵原惟人、都留重人、羽仁五郎、向坂逸郎、桑原武夫、茅誠司、坂本義和、野々村一雄、長洲一二、等々が、揃ってこの範疇に入っていた。もう少し後になると、ベトナム反戦運動の指導者として当時の若者たちの人気を集めた小田実などがこの中に入る。

彼等の思想の背景には、「プロレタリアート独裁(社会主義・共産主義)に基づく政治社会体制は人類が最終的にたどり着く理想の世界」「資本主義から社会主義・共産主義への移行は歴史の必然」「既にこの移行を始めているソ連や中国の指導者を崇敬すべき」「遅れている欧米はあらゆる手段を使ってこの移行を妨害しようとしているが、失敗に終わるだろう」等々の考えがあり、この考えと矛盾する事実関係が生じても、徹底的に無視するか、こじつけの議論で苦し紛れの反論をするばかりで、誰一人として真剣に悩み、「自分のこれまでの考えを見直そう」とする人はいなかったようだ。つまり、彼等は、戦争中と同様、殆ど完全に「不誠実な人」になってしまったのだ。

五歳で終戦を迎え、高校から大学にかけて「自民党が支配する政治・経済をベースとする現実の社会」と「進歩的文化人が実質的に支配する学問と言論の世界」の狭間で生きた私自身も、当然彼等の影響を大きく受けた。ソ連や中国の「不都合な真実」が色々な事件を通じて垣間見られるにつれて、彼等の言説への疑念は少しずつ大きくなっては来たが、まさかこれらの一流の学者たちが打ち揃って思考停止に陥っていて、「事実」と「論理」に裏打ちされていない事を公然と語っているとはとても思えなかったからだ。

現実には、マルクスの唯物論には「人間の本質」に対する洞察が完全に欠落しており、それ故に「間違った仮説」だった事が、今や白日の下に明らかになってしまった。即ち、「人間の生産性、創造力、勤労意欲といったものは、各人の精神状態(やる気)によって大きく変わってくる」「組織を運営するには権力が必要であり、権力を持った人間はそれから得られる利益を独占しようとする(本来の目的だった筈の『平等主義』はここで蹉跌する)。そして、こういう人間たちは、自らの権力を維持する為には、どんな理不尽で残虐な事をしても恥じる事がなくなる」という「普遍的な真理」が、最終的にソ連と東欧の社会主義・共産主義体制を崩壊させた(中国は、この轍を踏まないように、「建前」はそのままにしながらも、「実質」を大転換させつつある)。

これが予想以上に早く実現した為に、これら「進歩的文化人」達の強い影響力の下にあった日本も、そして私自身も、深みにはまって自ら悲惨な体験をするのを免れた訳だが、それでは、彼等「進歩的文化人」は、過去の言説を一つ一つ訂正して、自らの不明を詫びたかと言えば、そんな話は一つも聞いた事がない。それどころか、彼等の流れを汲む人たちの一部は、今は「プロレタリアート独裁」の看板を「平和憲法死守」「経済成長より環境保全」「原発全廃」等々に塗り替えて、また同じ「不誠実な」アプローチを試みているように思える。

少なくとも頭脳のレベルとしては人並み以上であった筈のこれらの人たちが、何故このように信じられないような「思考停止」に陥ったのかは、謎と言えば謎だが、私はその理由を次のように考えている。

先ず、この人たちは、それまでの長い間「文化人」としての安穏な生活に慣れ親しんでいて、貧しい農民や労働者との連帯感を欠いてきた事に「負い目」を感じていた事。次に、戦時中も軍部に公然と反抗して、米軍に解放されるまで長い獄中生活を送ってきた叩き上げの共産党員に比べ、彼等には戦時中は軍部に協力したという「負い目」があった事、そして最後に、「プロレタリアート独裁」路線の先頭に立つような言論活動をしていないと、社会主義・共産主義政権誕生(彼等は早晩そうなるだろうと予測していた)の暁には、「反動分子」として「吊るし上げ」に会い、場合によれば「人民裁判」にかけられるのではないかという「恐怖心」があった事、等々がその理由であったに違いない。

さて、現代を生きる我々には、今こそ「誠実な人」がどうしても必要だ。

しかし、実を言えば、「誠実な人」が社会に大きな影響を与えるのは大変難しい。嘘であっても不公正であっても、何でもいいから、白か黒かをはっきりさせ、違う考えを持った人を「悪者」に仕立て上げて、こういった「悪者」を激しく糾弾すれば、かなり多くの人たちがついてくる。これに対し、誠実に真理を追求し、「これについてはどちらとも言えない」等と言っていたら、複雑な問題を色々な角度から考えるのが苦手な大方の人たちは、面倒くさがって誰もついてこない。

だからこそ、漸進主義的な改革は古来成功した例が少なく、改革運動は常に過激な方向に引っ張られる。過激派は更なる過激派を生み、「悪者を徹底的に懲らしめる」事を心の底で求めている「大衆の熱狂」に火をつけていく。そうして、破壊と混乱が一段落し、こういう事が実は殆どプラスにならず、逆に大きなマイナスをもたらしたのだという事に大衆がやっと気がつく頃には、既に取り返しのつかない程の損害が積み上げられてしまっているという訳だ。

今こそ、我々は多くの歴史的な教訓から学んで、最終的にどんな人が「良い人」で、どんな人が「悪い人」なのかを、慎重に見極めていかねばならない。その為には、「見てくれ」が良かろうと悪かろうと、先ずは「誠実な人」である事を、我々自身の判断の「リトマス試験紙」にするべきだ。そして、そういう人たちを勇気づけ、助けていくべきだ。それは、面倒臭く、あまり楽しい事ではないかもしれないが、我々の将来の為に、どうしても必要な事だと思う。

(追記)

「進歩的文化人」が実際に語っていた「驚天動地の言葉の数々」については、第三回山本七平賞を受賞した稲垣武氏の「悪魔祓いの戦後史」に詳細にわたって網羅されているので、是非ご参照願いたい。尤も、この本はあまりに大部なので、誰かがポイントだけを記述した「もう少し簡単な本」を出してくれると、より多くの人たちへの啓蒙になると思う。マンガ「進歩的文化人」の出版も期待したい。