フォーブスの「語られ始めた『日本の失われた20年はウソ』という真実」が日経電子版に翻訳掲載されていてお読みになられた方も多いと思います。この長文の記事に考えさせられるものを感じました。
その基調は日本は失われた20年などなく、単に人口が減っただけで、デフレも「良いデフレ」であり、なにをもって「失われた」のかでっち上げもいいところだ、という強い論調になっています。更に経常黒字を上げている主要先進国はドイツと日本だけ。日本の財政赤字が騒がれているが、日本人が銀行預金などを通じ国債を買い、政府はアメリカの債権を買っているのだから日本政府は単に銀行の役目だ、と一蹴しています。
極めつけはこの節です。
「日本政府の高官は、弱い日本経済というイメージが、日本市場の閉鎖性に対する米国政府の懸念を和らげるのにきわめて効果的であることに気がついた。勘の良い彼らは以来、日本経済が不可解な病を患っているフリを続けてきた。例えば宮沢喜一蔵相(当時)はある時、明白な根拠もなく『日本は破滅的状況に近い』と発言した。」とし、主たる民間企業のトップも不安を煽る発言をし続けてきた、としています。
つまり日本は仮病を使っていたというかなり一方通行な論理なのでありますが、全面否定する前に少し考えてみる価値はあるのかもしれません。
日本がバブル崩壊までを「よき時代」とする理由は何でしょうか? 不動産価格が上がり、企業業績は上向きになり、賃金は上昇し、雇用も安定していたからだろうと思います。しかし、バブルの申し子だった私からすれば日本経済が高揚し、マネーが溢れ、最後の数年で株と不動産に過度の期待が寄せられていたことが特徴だったともいえます。ところがバブルは中身がなく、パッと弾けるという前提ですので日経平均4万円近くという高値を基準に考えることがそもそも間違えになります。
むしろ、日本の強さは円高になっても輸出企業は過去最高レベルの利益を上げてきたことが証明しています。デフレの主たる原因はその統計のベースとなる家電製品や商品が急速な技術発展で価格が崩落したことが大きく、それはある意味確かに「良いデフレ」であったかもしれません。
ただ、そこから日本はエキストリームな世界に発展していきました。ファーストフードなど飲食業界に見られる価格競争です。それは消費者を置いていき、自己シェア確保のための業界内での競争でした。当時「No.1でなくては生き残れない」と経営者は叫び、それに反するように「No.1にならなくてもいい」という世相を反映する歌が世の中に蔓延する奇妙な時代が続いたのです。
結果としてそこでは人件費を削り、非正規雇用を増やすという企業の保身的行動が主流となり、これが国民に鬱憤として蓄積されたというのが非常に大雑把な捉え方だろうと思います。
ならば、そこにはフォーブスの記事に指摘のとおり日本経済の根本は失われていたわけではなく、企業行動と個人行動の価値観が噛み合わなかったという見方も出来なくはありません。
失われた20年を正当化するならば80年代までの内需主体で終身雇用に基づく安定成長の日本がなくなった、ということだと思います。ところがそれから既に20数年たっているわけで若者は80年代の生活を知りません。つまり、彼らにとっては何も失われておらず、50代から上の人たちの昔を懐かしむ声を聞き、若者たちは「俺たちは損をしている」と思わせているとすればよいのでしょうか。
我々は「失われた」というメディアの言葉に踊らされたかもしれません。アベノミクスや異次元の金融緩和で日本に突然スポットライトが当たり高度経済成長を再び取り戻すことはないでしょう。特に経済はいまや、ボーダーレスであって一国の経済政策ですごろくゲームを勝ち抜くことは出来ないことは政府の優秀なる頭脳集団はよくわかっているはずです。
今の日本は他国と比べ本当に良い状態であると考える方が幸せなのかもしれません。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2013年8月30日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。