日本の表情「お辞儀」(1)オリンピックで期待される「出会い」

北村 隆司

最近のニューヨークタイムズに東京発のこんな記事が載った。

昔から、日本の社交は出会いに頭を下げてお辞儀をすることから始まり、握手をする事は未だ習慣にはなっていない。ところが、最近は『スマホ』が何百万人の人々の社交の道具になって来た。その仲介を務めているのが『ライン(Line)』という二年前に発足した社交アプリケーションで、それを通じて情報や他愛のないスティッカーを送ったり、友人とゲームを楽しむのだ。現在では、その利用者の数はアジアで2億3千万人に及ぶ。この数字は、世界一を誇る『フェィスブック』が5年掛って到達した普及率である。
しかし「ライン」はまだアメリカには上陸していない為、韓国に本社があるNHNコーポレーションの子会社である『ライン』社の名は、殆どのアメリカ人は聞いたこともない

云々。

これでも判る通り、欧米人にはお辞儀が日本の象徴に見えるらしい。そのためか、欧米で活躍する日本人の野球やサッカーのプロ選手がファインプレーをすると、チームメートが日本人選手に駆け寄ってギコチなく頭をぺこぺこさせてお辞儀する風景を良く見る。


私にはこの風景は余りしっくりしないが、彼らは真面目に日本人選手を祝福した心算なのだろう。

だからと言って、日本の若者の「出会いの挨拶」がお辞儀に代って左上の写真にある様に「スマホ」を覗き込む事になってしまうとしたら寂しい限りである。

それにしても、日本のお辞儀の表情の豊かさには驚かされる。中には握手とお辞儀を併用した和洋折衷方式もあり、握った手より更に頭を下げてお辞儀している人も時に見かける。

流行り言葉を使わせて頂けば、柔和な微笑を湛えながら自然なお姿での天皇陛下のご挨拶は、誠に「クール」で天下逸品の芸術品である。

陛下がオバマ大統領を宮廷に迎えられた時の写真(上掲中央)を見れば判る通り、オバマ大統領のお辞儀はぎこちない。長身だと言う事を割り引いても、一国の元首としては余りにへりくだり過ぎると米国でも問題になった位だ。

これで陛下が轟然と構えておられたら、オバマ大統領は政敵からの批判の防戦に追われていたに違いない。その点、天皇陛下の穏やかで気品のあるお姿がオバマ大統領を救った様に思う。

これでも判る通り、他国の伝統や習慣を身につける事は難しい。

欧米で不思議に思われるのは、日本のサービス業のお辞儀である。

右上に掲げた写真の様に、無表情でロボットの様に頭を垂れる姿は、何とも奇異な印象を与えるらしい。
とは言え、この人工的なお辞儀は奇異には映っても、欧米の小売業の窓口で良くある、顧客を無視した私語や乱暴な客扱いの様に相手を不愉快にする事はない。

一方、これに慣れすぎた日本人には「ロボット的お辞儀」は視界にも入らず壁のような存在になってしまうと思うと、お辞儀をしている人達には気の毒な気もする。

先日の新聞にに、中国人観光客のマナーの悪さにドイツの新聞が苦情を述べたと言う記事が出ていたが、2020年にはオリンピックを迎える日本のサービス業の皆さんは、お国により様々の人柄と、大きく異なる価値観を持つ遠来のお客の全てを満足させる「オモテナシ」が期待されていると思うと、その重みは誠にお気の毒である。

学生時代通訳ガイドのライセンスを持っていた私は、勉強をそっちのけにしてガイドや通訳で稼ぐのに忙しかったが、外国のお客様の満足を得るように対応する気苦労で、嫌いな勉強より疲れた事を覚えている。

その時の事で忘れられないのは、当時のタイ航空のCAの「合掌」の挨拶であった。その優雅な合掌姿に、疲れや苛立ちを吹っ飛んだ事を今でも覚えている。

私の狭い経験では、日本の「おもてなし」の気のこまやかさが世界一である事は疑いの余地も無く、2020年のオリンピックでは、お辞儀の優雅さを活用して日本ブランドの向上に寄与される事を期待している。

次回は、同じお辞儀でも陳謝などに多用される意味のないお辞儀について触れてみたい。

2013年9月10日
北村 隆司