電子教科書を巡る不毛な議論

大西 宏

アゴラで電子教科書をめぐる議論がありました。世の中は新しい文明にクレームをつけ、抵抗する人がいるものだなあとつくづく感心します。紙の教科書であっても、電子教科書であっても、内容が同じであればいずれにしてもさほど変わるものではありません。本来議論すべきは、電子教科書を導入すべきかどうかよりは、電子教科書でどのような学習効果が期待でき、またどう活用できれば子供たちの能力を高めるのかです。それによって、電子教科書の内容も、活用方法も変わってくるはず。


電子教科書に関しての反対意見を見ていて感じたのは、教育のターゲット観ですれ違いがあることです。典型的には辻元先生の反対意見ですが、それは研究者とか、ピラミッドの頂点に立つ人たちの話ですねと言いたくなります。
デジタル教科書のデメリットについて : アゴラ – ライブドアブログ :

私の職業は数学者で、数学を日々研究しています。未解決の問題を解くわけですが、問題を解くのには、集中力が必要です。では、集中力とは何でしょうか? それは、頭の中に不必要な情報を置かないことです。プロ棋士は、頭の中に将棋盤を思い浮かべ、その上で将棋の駒を動かして考えるそうですが、これと同じで、頭の中を空っぽにして、論理だけを追うわけです。論理がまとまれば、数式に書いて確認する、これが基本的な研究活動です。

将棋の話もでてきますが、研究者にしても、棋士にしても、その道のプロのあり方をおっしゃっているのですが、それが一般にも言えるかというのは危ういところです。それで教育のあり方を語るというのは、あまりにも問題を単純化し過ぎで、しかも上から目線を感じます。一般人からすれば数学も将棋もなくてはならないものではありません。

もちろんなにを解決すべきかの問題を絞り、そこに集中することはどのような仕事でも必要なことです。それには異論はありません。しかしそれが教科書で得られるかというとはなはだ疑問です。

問題解決能力は教科書から得られるものではありません。学校教育でいえば、何を問題として生徒に示し、問題解決のために考えてもらうかであり、教え方の問題でしょう。

たとえば「いじめ」が大きな問題となってきていますが、それは教科書が紙であっても、デジタル化されていても、その解決につながるとは到底思えないのです。それは先生が問題として取り上げ、生徒に考えさせる、そこで気づかせるという教育によってしか解決しません。

辻先生のお話は、ある程度教育トレーニングされたエリートの話ではないかと感じます。上を引き上げる教育は、乱暴にいえば、できる子はほうっておいてもできるということがありますが、むしろより創造性を高める教育はどうあるべきか、高等教育をどうすべきかの問題ではないでしょうか。それを言い出せば、日本の高等教育もお寒いのが現実です。
世界大学ランキング(2012-2013) – NAVER まとめ :

教育にはデキル子供を引き上げるプルアップの教育と、デキナイ子供もデキルようにするボトムアップの教育があると思いますが、それは同じに扱えません。今社会問題になってきているのは、日本に根付いていたボトムアップの教育が揺らいできていることです。

底辺のレベルをあげる教育も、究極は同じかもしれないとしても、方法は相当違うはずです。未解決の問題を解くというレベルの話と、中学校にいっても九九がまともにできない子供、大学に進学しても分数がわからない子供に、未解決の問題を解く方法をいきなり教えるということをおっしゃっているように感じます。

そもそも学習することへの動機づけを行うこと、問題解決の楽しさ、問題を解くための集中力を培うことは、紙の教科書か、電子教科書かの問題とも違うのではないかと思えてなりません。

未解決の問題を解くためにも、最低限の知識や考えるスキルは必要で、その最低限の知識やスキルを現代の教育が子供たちに持たせることに今の教育が成功しているとはいえません。

一般的な学力の低下がどう影響するのかはわかりませんが、少なくとも学力ということでは、OECDが3年に一度15歳の子供を対象に加盟国で調査を行っています。参加国が増えてきているのですが、日本はいまでも高いレベルにあるとはいえ、そのランキング順位の変化で見ると日本は低下してきて、やっと2009年ですこし改善効果がでたという感じです。
OECD

生徒の学習到達度調査2009年国際結果の要約 (PDF:1177KB) :

2009年のランキング上位国は、
読解力で、一位上海、二位韓国、三位フィンランド
数学的リテラシーで、一位上海、二位シンガポール、三位香港
科学的リテラシーで、一位上海、二位フィンランド、三位香港
です。
いずれも電子教科書を導入した国が上位にはいってきています。直接関係しているかどうかはわかりませんが、調査してデータを示すべきは電子教科書に反対している人のほうではないかではないかと感じさせる事実です。

そういった抽象的な問題ではなく、今、教育で問題になっているのは、報道2001でも特集されていましたが、所得による格差が学力の格差となり、しかも負のループを描き始めていることです。
報道2001にでていらっしゃった舛添さんにしても、下村文科相にしても幼い頃は非常に貧しく、そこから這い上がった人だそうです。貧しいところから教育で這い上がる仕組みは、日本は江戸の時代から寺子屋制度などがあり、さらに明治以降も日本はさまざまな制度を持ったのです。たとえ、貧しくとも、勉強ができれば師範学校や、陸軍や海軍の士官学校に進学すれば給与までもらえました。

しかし今起こっているのは所得格差による教育格差です。私たちの頃は授業料の安い公立校でも、国立大学に進学することも可能でした。大学も初任給が3万円程度の頃に、国立大学は授業料が年間1万2千円でした。しかも塾に行く、家庭教師をつけるというのはほんの一握りでした。しかし今では塾に行くのも当たり前、家庭教師をつける子供もいる時代で、教育環境そのものに格差が広がってきています。

それが今揺らいできていることが、日本の教育の最大の問題ではないでしょうか。

日本の教育が何を失ったか、それは希望です。貧しくともしっかり勉強すればそこから這い上がれるという希望です。

日経ビジネスで特集がありましたが、所得に応じて進学が決まってしまう社会、階層の固定化が起こってきているのです。記事で掲載されていたグラフを見れば所得で進学率が決まってしまう現実が如実に示されています。
とそんな国に活力が生まれるわけがありません。平均的学力でなくとも、なにかで自らの能力に目覚め、学ぶ動機を生み出し、また学べるツールを提供すること、抽象的な、あるいは観念的な議論ではなく、電子教科書はそれにどうすれば役立てることができるのか議論こそ必要なのです。
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「所得格差」が「教育格差」を生む冷酷な現実 | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉:日経BPオールジャンルまとめ読みサイト :

電子教科書の作りようによっては学習塾にいかなくとも、塾に通っている生徒と競い合う学力は身につけることができるかもしれない、そこを議論しなければ議論の意味を感じません。

貧しいために親も子供の進学をあきらめる、だから子供も勉強しない、勉強しようにも、塾に行っている生徒とは最初からハンディがあり、ついていけない、そんな教育の現実でいいのかどうかです。

思えば鉄道が普及し始めた頃も鉄道に警戒する声がありました。それまでの馬車や牛車、また徒歩での移動で優れていたこともあります。移動する空間の空気を、ゆっくり移動することで深く味あえることとか、鉄道はそれまでなかった事故を生み出すとかを懸念してでしょう。しかし、鉄道は普及し、さらに自動車が普及し、航空機も普及しました。
電子教科書問題でも、時代の変化に対する抵抗感を持つ人は、いつの時代にもいるものだとあらためて感じます。なぜやってみなはれと言う勇気がないのか、そのためにはどういう方向を目指せと主張しないのでしょうか、私のような凡人には理解しがたいことです。