最近の韓国の政界、マスコミなど指導者層の言わば「タテマエの世界」は正直「反日ごっこ」どころではない。一匹や二匹のもぐら叩きには「反日」の効き目はあっても、あっちでもこっちでもぐらが顔を出し始めると効力も薄くならざるを得ない。
「もぐら」の本質とは何か。従北・親北派とよばれる、よく言えば汎民族統一主義者、悪く言えば反国家(反大韓民国)主義者の策謀である。それは、韓国人にはあまりに不吉はっきり言挙げしたくないようなのだが「大韓民国」という名の国家の存亡の危機である。
先日、海洋警察庁の記念式典で朴大統領は「独島(竹島)を守ることは韓国の自尊心を守ることだ」と演説し、図らずも竹島問題とは現実の危機や国益確保というより長期的な国家統合のための「克日」という道義的合意の確認という心の問題であり、目前に迫った国家の存亡がかかったような危機的問題でないという本音を図らずも吐露してしまった。
心ある人々は日本の再侵略の野望への対応をどうして煽らないのかと眉をひそめるが、残念ながら現在の朴大統領を追い詰める敵は日本ではない。現況は「日本に克つ」どころか大韓民国という国家が明日にもなくなっちゃうかも知れないのである。まあ、新大統領の政権初一年はだいたいいつもこんな具合なのだが、ともかく今回も連日のように左派のゆさぶりと右派の反撃が政界とマスコミを揺るがせている。
国家情報院(昔の韓国情報部)の大統領選挙介入疑惑に始まり、以前、韓国の国家「愛国歌」を拒否すると発言し物議を醸した主体思想派の統合進歩党李石基議員他の内乱陰謀罪疑惑と起訴、そうした問題の捜査に関わる検察への牽制であるところの検察総長隠し子スキャンダル報道と、「反国家」対「反動」の対決は仁義なき戦いの様相を呈している。
一方、韓国知識人の大好きな歴史教育論争も燃え上っている。植民統治期を近代化発展の歴史の連続性の中で捉え大韓民国の近代民族国家としての正統性を訴えた、ニューライト系歴史学者らによる韓国史教科書が検定を通過したことに対して、左派は「親日・親独裁の不良な右翼教科書」と攻撃する一方で右派は既成の教科書こそ「親北朝鮮・親共産主義・反米・反韓国」のバイアスがかかっていると反撃、それに加え出版社に対するテロの脅迫まで続き、問題は左右の競争メディアの代理戦争にまで広がっていく雰囲気だ。
韓国のこういった時事の動きを追うほとんどの日本の人々は「韓国は一体どうなってんの?」と首をかしげていることだろう。しかしそれはあくまで国民指導層と言われる政治家やらマスコミの話であってそれを見守る当の韓国市民社会もまた呆れ顔で距離を保っているというのが実情だ。
韓国の「ホンネの世界」、つまり市民社会を眺めてみると、新聞だのテレビは大騒ぎしているしている反面、外国からの視線とあまり変わらず、あまりに複雑怪奇でいつものことだが何のことやら訳が分からんと呆れ顔の人々が多い。周囲を見回してみれば、怪しい雲行きの経済状況に寂しいふところを抱えて、不貞寝やヤケ酒を決め込む人々、公園をひたすら歩いて運動に励む人々、みな寡黙で能面のような静かな冷たい表情だ。韓国は今、秋夕(旧盆)の長い連休が終って、休み疲れというか人々の動きも緩慢でなんとなく気だるい雰囲気である。
学生たちも何となくいまいち勉強に本腰を入れられない。外国人たちを出演させて文化衝突的問題について面白おかしく討論させるような日本のテレビ番組があるらしい。
ある日、授業の休み時間にスマート・フォンを時折クックッと笑いながら一心に眺めている学生に何を見てるのだと聞くと、そういう番組の一場面で、キムチをバカにされたといって韓国人が怒っている動画を見せられた。先生、それどう思いますかと学生が面白そうに聞く。ふむ。あのなあ。キムチなんかで自慢したり怒ったりしてんのは本当の愛国心じゃないぞ。愛国心というのは生まれ育った共同体の隣人を無条件に愛することなのだ。キムチだのオリンピックだのそんなもの何もなくてもいいのだ……。
韓国の若者たちには山奥に住む道士のようなこの世のどんな権威をも遠ざけるような道徳論をぶっているのが一番である。その時も私のいつもの演説を聞いている学生たちの顔つきもまんざらでもなさそうだった。
韓国人は対外的には一枚岩に見えるだろうが、実のところ「欲求の体系」市民社会に生きる個人としてはほとんどの人々が「指導者たち」の見解には常に距離を置いているか、あるいは「反感」を抱いている。「恨」の世界である。反日も反共も実質的には市民ではなく指導者たちのタテマエであり一般の韓国人にとってはその道具的価値、もしくは一時の気休めの価値ほどしか認めていないものなのである。
日韓関係を考える上で、両国関係の表層に現れる政府や官僚、言論、マスコミ、学界といった指導層の言説をいくら分析しても問題の本質は分からないし、誤解の種はさらに増えるだけだ。なぜなら、それは国家による市民社会の統治や管理という媒介による化学反応後の結果に過ぎないからだ。化学反応を起こす前の素材である普通の人々の世界、つまり国家とは対抗関係にある「市民社会」の声なき声に耳を澄ませて、彼らの不満とは、苦悩とは、危機とは何かを掴まない限り正しい選択はできない。
日韓両国ともその市民社会は、独立した各個人の経済的・政治的活動の領域としてリベラルな民主主義という理念や制度によって国家の行き過ぎた管理から守られている。リベラルな民主主義とは市場志向型経済の高い生産性と政治秩序における積極的・消極的両面における個人の自由を守護する理念であり、それが目指す行動様式が評価安定されたものが民主的制度だろう。両国は同じ価値観を共有すると言われて来たのはこうした部分だ。
しかし、その市民社会の信条構造を比較すればその様相は大きく異なる。日本の場合は、おおよそ二割の人々が市民的権利のなお一層の完備を求め、八割の人々は自由や権利の享受には概ね満足し、むしろそれがもたらした生活実感のない虚無的幸福や人々の断片化、無力感を問題にしているように見える。八割の人々にとって自由・平等・福祉とはすでに虚無の束縛と可能性の剥奪を意味し、自律的選択主体の役割に疲れ果てて自己同一性の対象と場を他律的に求め、二割の人々の「空想的」完全平等を求める権利闘争を露骨に拒んでいるという印象だ。
そして結果として日本社会の痼疾ともいえる同質性神話による排除は依然として止まず、また一方で熟議的討議の民主制を可能にする自律的な共同性も陽の目を見られない。そういう点で両派は共犯者関係にあるのかもしれない。
韓国の場合は、日本とほぼ逆だと見ればいい。八割の人々は国家をはじめとする権力に自らの市民的権利が侵害されていると感じ、二割はその市民的権利が多少制限されたとしても大韓民国という政治共同体の正当性を確保しその秩序と安全を守ることを優先しようと考えているようだ。
労働争議の過程で自殺した労働者の死体を収めた棺を先頭に進む労働者デモ隊が、機動隊に守られた本社ビルの玄関を突破しようとつばぜり合いをするおどろおどろしい抗議行動は、弱いものの抵抗として八割の人々には好意的に捉えられる。韓国市民社会は政治的弱者の権利を守るためには手段を択ばない。
労働運動やら民主化闘争だけではない。交通事故から従軍慰安婦問題に至るまで個人の権利すなわち謝罪と補償を勝ち取るための戦いはすべてその伝である。韓国市民社会の敵はそれが自国であろうが外国であろうが権力を行使しようとするものすべてだ。そして結局は、家の玄関を出れば「万人の万人に対する闘争」を繰り広げるしかない不信社会において権利という名のエゴイズムを声高に主張する八割の人々によって、二割の「大韓民国」という政治共同体の秩序と安寧を望む人々が拒まれることで、韓国社会の混乱の種は尽きないのである。
「大韓民国」の正当性はいつまでも弱体のままであり、共同体の紐帯となる道義的合意はいつまでも得られそうもない。そして、政界や言論、マスコミは左右に分かれ、どこまでも自律的選択の自由の権利を獲得することにしか関心のない市民社会を、反日だろうと反共だろうと何でも利用してどうにかして自己の陣営に取り込もうと必死である。そういった左派・右派指導層のあがきこそ日本から見える韓国であって、その市民社会の本当の姿は見えていない。
結局、両国の市民社会を眺めて思うことはどうもその近代におけるナショナル・アイデンティティ形成の類型が相対的に見て根本的に異なっているのではないか、という印象だ。日本は後発近代化型の、血統や人種の「唯一性」や集団的意思の「真正さ」を追求する集合主義的なもの、韓国はアングロ・サクソン的な個人の「権威からの離脱」と「自由主義的」な性向をその基礎としているのではないだろうか。
しかし、両国とも指導層が、戦争敗北や植民地支配という過去のルサンチマンによるものなのか、それぞれ国民性向とは逆の方向性、リベラルな法治主義や民族主義という国民の魂が籠らない借り物の思想で国内的にも対外的にも管理しようとしているのが間違いの元になっている。「平和憲法」やら「反日感情」などと呼ばれるものはその作品に過ぎないのかも知れない。
例えば日本の言論には韓国の反日教育を一種の洗脳教育だと危惧し批判する向きもあるようだが、それほど心配することもない。なぜなら、韓国の市民社会というのはそんなものを無邪気に信じ込んでくれるような素直なものではない。そんなもので簡単に人々がまとまるぐらいならば韓国は近代化にこれほど苦労と犠牲を払ってきたはずがないし、そのスピードはもっと速かっただろう。
李承晩大統領以来長期間にわたりあれほど強烈に注入された反共反北朝鮮教育、「北の共産主義者は人でなく鬼だ」とまで表現された教育の成果は、民主化で一夜にして全くの無に帰した。北朝鮮の体制には何の変化もなかったにかかわらずである。結局、反共滅共のスローガンは市民社会の保身のための擬態に過ぎなかったのである。
そのことは、このあいだまであれほどの共産主義の洗脳教育に晒されて来たはずの中国人たちに、今、透徹したマルキストなど何処にも存在していないことと同じことだ。たぶん韓国だけでなく中国の市民社会もナショナル・アイデンティティ的には今後別のカテゴリーで語られる必要があるだろう。
ともかく今後は市民社会同士の相互理解とそれを基礎とした語りかけが、誤解の罠に落ち込んだ日韓の異文化コミュニケーションを正しい方向に導く鍵となる、それが私の考えだ。
太田 あつし
永進専門大学国際観光系列(韓国、大邱市)
外国人主任講師
ブログ:鏡の向こう側 私の政治学研究ノート