民主党政権の混乱がやっと終わったと思ったら、今度は自民党の(昔のように)何もしない政治が始まった。最初は力を入れていた「大胆な金融緩和」に効果がないと知った首相は、増税による「景気の腰折れ」を防ぐと称して、昔のバラマキ公共事業に回帰してしまった。来年度予算は、シーリングもなしだ。
このような民主政治の前提とする「国家の主権者は合理的な個人であり、彼らの民意を正確に集計して政治に反映させる」という論理はフィクションである、と著者は断定する。実際の政治は、自律性も合理性もないできそこないの個人が付和雷同して決めるものであり、民主政治は危険な統治機構である。
さらに危険なのは、「人権」や「平等」を求めて、自分たちの正義を社会に押しつけようとする大衆人である。彼らはその人権なるものが「神から与えられた」神聖で不可侵の自然権だと主張し、このような信仰にもとづいてフランス革命が行なわれ、多数派からなる「階級」が国家を支配すべきだという信仰のもとにロシア革命が行なわれた。その結果生まれたのは、合理的でも民主的でもない独裁国家だった。
こうした混乱の原因は、著者によれば国家を支える精神的な権威と暴力装置としての権力を混同することにある。議会で多数を得ることによって権力は獲得できるが、権威を生み出すことはできない。権力は、権威で正統化されることによって初めて維持可能になるのだ。
では、その権威の根拠は何か。これについてホッブズは、人間は「破滅を避け、自分自身の特徴と自分の選んだ目標追求とを維持しようという衝動によって支配された生物」であるという生存への欲求によって、自己の安全を守る国家を支えるという。国家や君主の権威を人々が承認することで「万人の万人に対する戦い」は避けられる――というホッブズの主張を著者も認める。
しかし多くの人々が批判したように、国家権力を支える権威が神に与えられたものではないといいながら、その根拠を国家に求めるホッブズの論理は循環論法であり、結果的には絶対王制を正当化するものだ。ここでは個人は、所与の国家を承認することしか許されていない。
これについて著者は、国家の第三の要素として市民的結合体なるものを持ち出し、市民が国家に支えられつつ国家を監視するというのだが、これは率直にいってよくわからない。国民が合理的でもなければ主権者でもないという著者の民主政治に対する批判は鋭いのだが、それに代わるガバナンスを彼は提示しえていないのだ。
ただ直接民主制で国家を支配しようとしたフランス革命より、間接的で分権的な統治機構にしたアメリカ合衆国憲法のほうがはるかに長期間にわたって秩序を維持しえたことは、なるべく「民意」を信じない制度のほうが安定するという著者の主張を裏づけている。この意味で民主党の失敗は、その党名によって宿命づけられていたのかもしれない。
原著は1963年に出た論文集を1991年に増補したものだが、日本ではこういう正統的な保守主義がほとんど理解されていないので、一読の価値はある。