アゴラでの「デジタル教科書」推進の議論を引っ張っているのは中村伊知哉さんを始めとして多勢いるが、懐疑論者は数学者の辻元さんにほぼ集中しているように思えるので、先ずは辻さんの論点をよく咀嚼する事から始めるべきは当然だろう。辻さんの議論はこちらで一括して読める。
結論から言うなら、私自身は、辻さんが仰っておられる事の多くは正しいと思っており、現在多くの人たちが陥っている「ネット依存症」の問題点についても、実は相当憂慮している人間なのではあるが、だからと言って「デジタル教科書の導入は急ぐべきではなく、先ずは実証実験を重ねるべき」という辻さんの提案には組みさない。
「デジタル教科書」の導入は、先ずは特定の学校で今直ぐに行い、そこでの経験を通して、早急に「望ましい運用方法」を練り上げていくべきだ。他国の様な実証実験をこれまで本気でやってこなかったのは国の責任であるが、今更過去を振り返ってあれこれ言っていても意味がないから、大変恥ずかしい事ではあるが、自前の実証実験は諦め、他国の実験の結果を借りてくるしかない。遅れてしまった国は「フロッグ・ジャンプ」するしかなく、なおもグズグズと議論をしていれば、本当に致命的に遅れてしまうからだ。
辻さんは最近のアゴラの記事で、フィンランドの実態について触れられておられ、「PISAで良い成績をとっているフィンランドでは、意外にICT化は進んでいない」と言っておられるが、これはたまたま見られた一例を参照しておられるだけで、必ずしも真実ではないのではないかと思う。
最近フィンランドに行ってこられた武蔵野学園大学の上松准教授のお話を聞く機会があったが、同国の幾つかの小学校では、入学と同時に全ての生徒はMailのアカウントを持ち、家で使っているPCやタブレットを毎日学校に持ってくる様に求められ(持っていない生徒は学校のPCを使ってよい)、それを使って生徒たちが学んだり体験したりした事は、全てIPネットワークを通じて、生徒と保護者と教員の間で共有されるという。教員と保護者の間の「連絡簿」でさえ紙でやっていて、生徒が持ち帰らない事によるトラブルが多発している日本とのあまりの格差に、殆ど失神してしまいそうだ。
ところで、この関係の議論になると、何故か「デジタル教科書」という言葉がキーワードになってしまっていて、この記事のタイトルにもその言葉が使われているが、考えてみればこれは少しおかしい。この際、もうこの言葉を使うのはやめて、「ICT技術をフルに活用した新しい教育のやり方」という言葉に置き換えるべきだ。「教科書のデジタル化」等といった問題は、「それなら、ついでに、今は紙に印刷されている教科書を、画面で見られる形のものに変えた方がいいよね」というレベルの、「一つのコンポーネント」の問題に過ぎないからだ。
今や、研究の世界でも、実業の世界でも、コンピュータとそれを繋ぐデジタルネットワークなしには何も出来ない。パソコンやタブレット、スマートフォンをまともに扱えない新入社員などは、殆ど使い物にならない。これは、「読み書きが出来なければ、普通の社会生活を送るのは困難だし、農業機械や化学肥料が扱えなければ、まともに農業は出来ない」というのと、ほぼ同じレベルの問題だ。
つまり、好むと好まざるに関わらず、現代社会においては、ICTは既に空気の様に我々の周りを満たしており、それを呼吸しなければ生きてはいけないという事だ。子供たちをこの世界から排除する事はあってはならないし、現実問題としても不可能だ。従って、かつて「読み、書き、そろばん」の効用を説いた人なら、今ICT教育の必要性を認めなければ、それは自家撞着になってしまう。
ちなみに、「ページをぱらぱらとめくる感触や、紙とインクの匂いを楽しめないのなら、読書とは言えない」というような事を、未だに大真面目に言っている人も結構多いが、これは自分のテーストとノスタルジーについて語っているに過ぎず、まともな議論とはとても言えない。
「液晶画面は目には優しくない」事は事実だが、これは新しい技術で漸次改善出来るし、「液晶画面では注意が散漫になる」という議論には、あまり科学的な根拠がない。要するに、これは「慣れ」の問題に他ならない。その一方で、電子書籍なら出来るが紙の本では出来ない事(分からない言葉をその場で検索するとか、背景をもっと詳しく知るとか)は山の様にあるのだから、紙の本にこだわる人たちは、自分のささやかなテーストの為に、それらのメリットの全てを簡単に諦めてしまうという人であり、「真面目な教養人」とはとても思えない。
さて、教育について語るなら、初等教育と高等教育を分けて考えるべきは当然であり、「ICTを取り入れた教育は高等教育からでも十分ではないか」という考え方も当然あっておかしくはない。しかし、これには後述するような大きな問題があるので、私は同意しない。
端的に言うなら、高校に入る前に個人で徹底的にICTを使いこなしてきた人たちと、初体験の人たちとを比べると、その時点では目も眩むような格差(デジタルデバイド)が出来てしまっている筈であり、こういう人たちが混在した教室では、殆どまともな授業は出来ないと思われるからだ。これを防ぐ為には、もっと早くから学校でICTを使いこなす経験を積ませねばならない。
具体的に言うなら、今後は、中流以上の家庭では「幼児期からICTに慣れ親しんでいる子供たち」が多くなろうから、この経験のない子供たちには、小学校一年でキャッチアップする機会を与えてやらねば、彼等は生涯を通して大変可哀想な目に会う事になってしまう。
「子供たちをネットに接触させれば、犯罪に巻き込まれかねない」として、子供たちをネットから遠ざけようとする人たちも、同じ事を考えるべきだ。学校が積極的に子供たちと一緒になってネットを使いこなす努力をしなければ、子供たちに正しいネットの使い方や、危険を回避する方法を教える機会がなくなる。
世界中の子供たちがごく普通にネットを使っている現在、日本だけが子供たちをネットから遮断するというのは、「善し悪し以前の問題」として、事実上不可能であり、この事は、少しでも現実の世界を知っている人なら、誰にでも分かる事だろう。にもかかわらず、もし学校がこの現実から逃げるなら、子供たちはネットを「何かうしろ暗いもの」と考えながら、こっそり使う事になり、悪い連中を先生にせざるを得なくなってしまう。
さて、ここで、ようやく辻さんの論点に真っ向から向き合う事になる。「ICTは本当に子供たちの学力を高める為に役立つのか? むしろ逆なのではないのか?」という問題だ。結論から言うなら、私は、「高める場合もあり、逆の場合もある。要するに『何処でどうICTを使うのか』という事に尽きる」という考えだ。そして、それこそが、「何故ICTの使い方を学校で教えなければならないか」の論拠でもある。
そもそも、「学力」とは何か? 教育に関連する問題は全てここから考え直さなければならないが、これにつては、辻さんが今回紹介してくれたPISAの標準が大変役に立つ。PISAの評価とは「知識や技能を、実生活の様々な場面で、直面する課題にどの程度活用できるか」の評価であり、学校カリキュラムには関係ないとされているが、これは大変面白い。この事が、逆に言えば、「現在の学校カリキュラムがそのままでよいのか?」という問いかけにもなるからだ。
PISAの評価では、図表・グラフ・地図などを含む文章が重視され、これが出題の約4割を占めるという。回答方法は「選択式」を中心にしながらも「自由記述」を求めるものが約4割を占めるという。記述式では、答えを出すための「方法や考え方を説明する」ことが求められる一方、記述の構成や形式も評価の対象になるという。「読解力」については、「情報の取り出し」「解釈・理解」「熟考・判断」が項目別に評価され、「自分の意見を表現する」能力が重視されるという。成程と思う事ばかりだ。
このPISA評価で、残念ながら、日本人の成績はここに来て急速に低下しつつあると言う。特に「記述式」では無回答率が高く、「読解力」では、「情報の取り出し」はまあまあなのだが、「熟考・判断」になると極端に成績が低くなっているようだ。この事は日本の教育の本質的な問題に関わる事であり、ICTの議論とは何の関係もない筈だが、辻さんの心配は、「ICTはこの傾向を更に加速させるのではないか」という事のようだと、私は受け止めた。
多くの人が指摘している様に、辻さんは数学者であり、その「かなり特殊な分野」での体験から、その意見に相当のバイアスがかかっている様には、私も思った。
確かに、数学者は、映像やグラフではなく、全てを数式で考えるし、高等数学の新しい数式などは、よく映画などに出てくる様に、頭をかきむしりながら、紙の上に(或いは黒板や部屋の壁面に)、殴り書きで書き散らしていくのが一番効率的なようだ。しかし、それは、あくまで「どのような形の思考にはどの様な道具が適しているか」といった局所的な問題に過ぎず、辻さんも我々も、そんな事に拘っていると本質から離れてしまう。
問題は一にも二にも、「ネット等で簡単に多量の情報が得られてしまうと、これで問題が解決したかのような錯覚に陥り、自分で考える意欲が失われてしまう」という事にある様に私は思う。確かに、情報量が不足していると、何とかして自分で考えてそれを補おう努力とするが、既に多量の情報がある事が分かると、そうはならないからだ。
これは、「紙か液晶画面か」と言った物理的な問題とは何の関係もなく、「知識と情報に対して、ハングリーであるか満ち足りているか」の問題だ。ネットは「知の探求プロセス」の一側面を飛躍的に効率化しつつあるので、その分だけハングリー精神が減殺されてしまうというのなら、それは或いはその通りかもしれない。
人間に最も必要なのは「考える力」だが、これに必要なのは、「自ら考える事」であり、これに刺激を与えるのは、「何が真実か」「何をせねばならないか」という「自分への問いかけ」である。更に言うなら、その「問いかけ」に対する答がなかなか得られない事に対する「焦燥感」であろう。
だから、全ての教育の要諦は、学ぶ者にこの「焦燥感」を味合わせた上で、彼等が「自ら考える」過程において、助け舟を出したり、間違った方向に向かっている場合には軌道修正を示唆したりする事であるべきだ。成る程、ICTはこの為にはあまり助けにならず、場合によれば「楽な方向へと誘惑する」という意味で、害になる事もあるかもしれない。
しかし、それでは、折角のICTをわざわざ封印して、学ぶ者を人工的にハングリーにすべきかと言えば、私は全くそうは思わない。学校はもはや教師が学生に知識を伝授する場ではなく、一緒に考え、議論し、何とかして共通の結論に到達しようとする場であるべきであり、その為にも、知識の部分は、学生たちが、事前にICTをフルに活用して、ちゃんと頭の中にいれた上で教室に来るべきである。
現実に、前述の上松准教授のお話では、フィンランドの小学校では、Flipping methodと称して、このようなやり方をそのまま導入しようとしていると聞いた。日本の大学生が、今なお教官が黒板に書いたものをノートに書き写し、試験に出そうな問題の解答を暗記しようと努力しているようなら、その将来は確実に真っ暗だ。
同じ事は、コミュニケーションの方法にも言える。ネット社会で育った若者たちは、凄いスピードで短文を交換し合い、問題の答に関係しそうなサイトを探して、そこで見つけた情報をコピペする事には驚くほど長けてきた。しかし、その反動で、「論理的に熟考した上での長文の記述」は全く不得手となったという事がよく言われており、これをICTの悪しき副作用だと言う人も多い。しかし、これも間違っていると私は思う。
私は、「秒速レベルで短文を交換する能力」も、「答に関係しそうな情報を素早く見つけてコピペする能力」も、害になるどころか、「これから益々必要となる能力」として、積極的に評価したい。しかし、勿論、それは入り口に過ぎず、結果を出すまでには、それに倍する「分析」と「熟考」、そして「議論」を通じての「反省」と、場合によれば「抜本的な発想の転換」が必要になるのだという事が、よく理解されている事が必須条件だ。
これを分からせ、この過程を助けていくのが学校の役割であり、その為には、教官と学生の間の、血の通ったコミュニケーションが必須なのは勿論だ。その事は、高等教育であっても初等教育であっても変わらないと思う。
今回は既に相当長くなってしまったので、「漢字の読み書き」の問題と「映像・画像の重要性」について、次回に持論を展開したい。