デジタル教科書問題 ~ 再論

松本 徹三

「デジタル教科書」という「単なる道具」を示す言葉が一人歩きをするのは良くないと言いながら、また自分自身でこの言葉を表題に使ってしまった。しかし、よく考えてみると、道具を入れないと何も始まらないし、抽象的な議論を何時迄もしていたら、全てが遅れるばかりだから、これは止むを得ないことかもしれないと思い直してもいる。


反対派の人たちのお考えを集約すると、「使い方とその効果をよく検証もしないで、迂闊に道具だけ入れて、効果より逆効果の方が多いことが分かったらどうするのか?」という事になると思うが、そんなに心配することはないと私は思っている。何故なら、「タブレットという道具」はソフトとシステムを変えることによって如何様にも使えるものであり、後で「大変な無駄遣いをいてしまった」と頭を抱えるような事態には先ずならないと思うからだ。

率直に言って、反対派の方々の議論を聞いていると、ネット社会にハマってしまった若い人たちの状況を苦々しく思うあまりにか、コンピュータというものの本質を忘れてしまわれたのではないかと思う程だ。

辻さんのように立派な方までが、ある時は「デジタル化すれば、膨大な情報が次々に人間の脳に飛び込んでくる為に、人間は深くものを考えなくなってしまう」と言われ、「必要な時には画面をフリーズしておけば良いではないですか」というと、「デジタル化の意味は映像にあるのだから、画面が静止しているのならデジタル化する意味がない」と仰る。「デジタル化」即ち「情報をコンピュータ処理ができる形にする」という事は、「如何様な形にでも表示出来るようにする」という事を意味するのであって、「映像化しなければ意味がない」という事には全くならない。

私とて「教科書をデジタル化すれば全ての良いことが起こる」と単純に考えているかのような人たちには安易に組みしたくはない。しかし、やり始めなければ、試行錯誤の糸口さえ掴めない。私にとっては「部分導入(大規模トライアル)」であろうと、「一斉導入」 であろうとどちらでも良い。時間をかけ本気でやりさえすれば、大失敗になることはあり得ないという自信があるからだ。とにかく、やり始める事こそが重要だ。

「現在、タブレット端末は既に多くの目的に使われており、ユーザーに概ね愛されている」というのが私の自信の根拠だ。巻紙にしたためられた希少な毛筆の極意書が、膨大な数の印刷された書籍にとって代わられたように、現在の紙の教科書が、近い将来、「無限に近い情報を、文字と音と画像と映像で瞬時に表示する電子ユーザー端末」にとって変わられることには、全く何の疑いもない。だから、WhenとHowを論じるのは良いが、「すべてが永久に無駄になる」といった事態を恐れる必要は一切なく、そういった危惧を根拠にする議論は全く無意味だ。

「本当にコストの見合う効果がえられるのか?」という疑念を捨てきれない方々が数多くいる事は理解しているが、「最初は、勿論、使えるアプリが限られているから、効果も限られており、従ってペイしているという状況にはなかなか至らないだろうが、2-3年もすれば、悪いアプリは淘汰されて、良いアプリのみが蓄積されていき、しかもその蓄積は加速度的に増大しているはずだから、必ず十分ペイしていると判断される状況に至っているだろう」というのが私の考えだ。ソフトやシステムはどんどん変わっていっても、ハードは変える必要はないから、投下された資本は遠からず回収される。

さて、若干先回の重複にはなるが、再び具体論を話そう。今回も取り敢えず初等教育だけに絞って、具体的な使い方を提案することにしたいと思う。

先ず「英語」については、始めから外国の教材を使ってガンガンやれば良い。教材の役割が80%、先生の役割が20%という感覚で良いだろう。それ以外の方法がないのだから仕方がない。これに反対する人は、教材にとって代われるような先生をどこで見つけてこれるかを教えて欲しい。

心配する人がそんなに多いのなら。「算数」と「国語」は慎重にやったらいいだろう。取り敢えずは現在の紙の教科書を普通の電子ブックのようにデジタル化するだけでもよい。それで特に得られるものはなくても、失われるものも全くないからだ。どうせ英語やその他の科目で必要だという事を考えると、タブレットのコストは既に賄われていると考えるべきであり、そうなると紙の教材がなくなった分だけコストダウンになるから、コストを理由に反対する根拠は全くなくなる。

とは言え、「国語」については、「プロが正しい発音で読み上げる」とか、「筆順を教える」とろまでは、当初から入れておくべきだし、「算数」についても、辻先生に監修をお願いして、「害はない」と認めて貰えるところまでは、取り敢えず入れておけばよいだろう。

さて、問題は、先回は敢えて触れなかった「社会」とか「理科」とか「道徳」とか「保健体育」とかだ。これらの教科についてはかなり積極的にやったら良いだろう。インターアクティブにする事についは、当初は慎重にした方が良いかもしれないが、映像や画像、グラフィックなどはどんどん入れて、カラフルにした方がよい。その方が理解を早め、且つ理解する内容を確実なものするという利点もあるが、それ以上に、子供たちに少しでも興味を持って貰える事が最も大切だからだ。

先回の記事で、「国語の教科書でも絵がたくさん入っていれば楽しくて良い」と書いたら、それを嘲笑したコメントがTweeterで寄せられたが、私はそのような人こそを嘲笑したい。子供たちはこんな「イヤな大人」にならない為にも、子供の時から楽しいことをどんどんやっていくべきだ。

今ニューヨークにいるので、伊藤忠時代の友人だった北村隆司さんから、米国の教育事情などについて色々な話を聞く機会があったが、米国では、初等教育で最も力をいれるのは、「それぞれの子供たちが、自分にとっては何が面白く、自分はどんな事なら上手くできそうかを発見できるよう、出来るだけの手助けをしてやる」事だときいて、我が意を得た気持になった。

辻さん等の議論を聞いていると、「全ての子供たちが将来大学で高等数学を学べるような素養を身につけるべきだ」と言われているかのように感じるが、そのような子供たちはせいぜい全体の10~20%ぐらいしかいないだろうし、日本を良い国、強い国にする為にも、その程度いれば十分だと思う。もっと必要なのは、どうしても数学を好きになれないタイプの子供たちには、将来とも簡単な代数や方程式以上の数学は学ばないでも済むようにしてやり、自身喪失や絶望から救ってやる事だと思う。

それからもう一つ。映像の重要性を訴えようとすると、すぐに出てくるのが、「かつて視聴覚教育ということが盛んに言われ、実際に導入したところもあったが、ほとんど効果がなく、すぐにやめてしまったではないか。今度も同じことになるぞ」というコメントだ。しかし、テレビの草創期に、教室におかれた小さなテレビ画面に、面白くもおかしくもない教育用の限られた映像を映し出しただけで、それ以上の努力は何もせずに、簡単に「意味がなかった」と決めつけてしまった事こそが、実はもっと問題だったのだ。この事を、今からでも遡って反省する事の方が、こういう事を言う人たちにとっては、もっと大切な事だと思う。

私は、常日頃から、「世の中にはどういう仕事があり、両親が外でどんな仕事をしているか」を子供たちが知り、そのことを通じて、もう少し両親を尊敬するようになったり、自分の将来を真剣に考えるようになったりするべきだと考えているが、その為には、色々な職場をビデオで紹介するのが一番効果的だと思っている。時折職場を直接見学するのも良いが、それでは多くの異なった仕事がある事を教えることは出来ない。

紙の教科書をやめてしまったら、家に持って帰って予習復習が出来なくなるという人も多いが、「学校で使うタブレットは家に持って帰って良い」ということにすれば、この問題は解決する。沢山の紙の教科書より、タブレット一個の方がはるかに軽い。「そんなことしたら、子供たちは変なサイトにアクセスしたり、ゲームばかりするぞ」と言う人がいるだろうが、学校で支給するタブレットからは学校が決めたサイトにしかアクセス出来ず、ゲームなどは全くできないような仕組みを作っておけば、そんな心配はしなくてすむ。

「そんな仕組みなんか、テッキーなお兄さんに頼めばすぐに解除してくれよ」という人もいるだろうが、ダウンロードしたコンテンツや、アクセスしたサイトをモニターする機能までは殺せないから、後で大目玉を食う覚悟をしなければ、子供たちはとてもそんなことは出来ない。

物事を何でも否定的に見て、「問題だ」「問題だ」とい言うばかりで、「そのような問題を克服する事」に情熱を傾けようとする人が少ないのを見ると、国が衰退しつつあるのを暗示しているような気がして、私はとても不安になる。何事も、もっと前向きに考えて見ませんか? 教育の問題を考える時、子供たちと接する時には、こういう姿勢が特に必要だと、私には思えてならない。