修道院・出家時代は終わった --- 長谷川 良

アゴラ

バチカン放送独語電子版(10月30日)によると、世界的に毎年3000人以上の修道僧、修道女が修道生活から離れていくという。バチカン奉献・使徒的生活会省次官ホセ・ロドリゲス・カルバッロ大司教がバチカン日刊紙オッセルパトーレ・ロマーノで明らかにしている。


同次官によると、2008年から昨年にかけ若い修道僧・修道女の離脱が増えているという。特に、修道女の離脱件数は多く、2001年から11年の過去10年間で79万2100人だった修道女数は71万3000人と約10%急減している。同次官は、修道院離れの原因として「修道院システムが迅速化したインターネット時代にマッチできなくなってきたからだ」という。

修道院が過去、果たした役割は大きい。社会から隔離された修道院で瞑想しながら、神への信仰を深める一方、多くの修道僧や修道女は社会的奉仕活動、医療活動を行ってきたことは周知jの事実だ。現在のローマ法王フランシスコもイエズス会出身者であり、修道院生活を送ってきた高位聖職者は多い。前法王べネディクト16世は2010年2月2日、「僧職に奉じた人生の日」への記念礼拝の中で、「修道院生活の意義はカトリック教会にとって大きい。修道僧や修道女のいない世界はそれだけ(霊的)貧困となる。彼らは教会と世界にとって価値ある贈物だ」と強調し、修道僧や修道女の献身的な職務に感謝を述べている。

ところで、日本で最も知られている修道女といえばマザー・テレサだろう。貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。そのテレサの生前の書簡内容が明らかになったことがある。それによると、修道女テレサは「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白し、「孤独で暗闇の中に生きている」と嘆いている。テレサの告白が報じられると、教会内外で大きな反響が湧いたことはまだ記憶に新しい。

当方はこのコラム欄で「マザー・テレサの苦悩」(2007年8月28日)を書いた。その中で「コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、テレサには『なぜ、神は彼らを見捨てるのか』『なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか』『どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか』等の問い掛けがあったはずだ。それに対し、神、イエスは何も答えてくれない。このような状況下で神、イエスへのかすかな疑いが心の中で疼く。マザー・テレサは生涯、神への信頼と懐疑の間を揺れ動いていたのだろうか。神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。その「神の不在」を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。マザー・テレサの告白は、『神の不在』に関する背景説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなってきたこと、等を端的に示している」と書いた。

真理を探究した宗教家は喧騒な社会から離れ、独りで冥想や祈りを捧げる修道生活を送った。2000年前のイエスは重要な決定を下す時、弟子たちから離れ、山で一人で祈られた。しかし、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活は本来の神の願いとは一致しない。神はアダムとエバを創造しているのだ。家を出て、寺で仏の道を模索する出家僧の生き方に共感は感じるが、もはや時代の要請に合致していないと感じる。個人の救い、解脱は結局、家庭・社会共同体の救済がない限り、限定されるからだ。

ローマ・カトリック教会でも聖職者の独身制廃を求める声が出てきた。フランシスコ法王は先月8日、世界代表司教会議(シノドス)第3回臨時総会を来年10月5日から19日までバチカンで開催する、と発表した。テーマは「福音宣教の観点から見た家庭の司牧的課題」だ。世界最大のキリスト教会、ローマ・カトリック教会も個人救済から家庭の救いにその焦点を引き上げなければならなくなってきているのだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2013年11月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。